MIND BBS 〜掲示板〜

判断。

ジャッコ

21.09.16 00:13

ワクチン接種もようやく各世代へ進んだ感じでしょうか...。アレルギー等、諸事情で接種が出来ない方や、接種に疑問があり躊躇する方もいらっしゃいますよね...そのような方々が今後差別されないように。また接種を望む方々が早く受けられますように...。

私も先日、やっと1回目のワクチン接種を受けられました。受付→問診→接種→待機と、とてもスムーズで負担なく終えました。小さい頃は注射が大っ嫌いで、あらゆる予防接種に「無駄な抵抗(逃げる・哀願する・大泣きする)」をしていましたが(結局、打ちました(苦笑))...。注射してくださった看護師さんが上手だからか、大人になったせいか?(笑)始めチクッとした後は平気でした...凄いです。
兄は接種した夕方から「腕が物凄く痛い」と冷やしたり、翌日は微熱も。やはり「副反応」が出るみたいですね(私も少々)。特に「2回目」は強く出る様なので、翌日は安静に。私も解熱鎮痛剤や多めに食品等を用意しておこうと思います。

確かにワクチン接種をしても罹患しますし、前は重症化し難くなる...でしたが変異株が増えて、2回接種をしても厳しいですね。それでもワクチン接種の有効性はあると思います。勿論、防疫対策は引き続き行って他者に感染させない・拡めないように努めます。
そして睡眠・バランスの良い食事・適度な運動等も。初秋を探す・感じながらのお散歩も素敵ですよね。(リハビリに少し外の空気を吸いに...でも良いと思います。どうぞ御大事になさってくださいね。)また音楽等の娯楽も。色んな御負担がある中、コンサートを開催してくださって本当に有り難うございますね。御厚意・覚悟等を無下にしない為にも、これからもマナー・ルール、防疫対策を厳守して参加させていただきますね。

そして石井さんの書き込みを拝読して(有り難うございます)。無反応・無関心等々.....心が麻痺している様な。今の時代、PC・スマホ等の「画面越し」で色々見聞きする事に慣れて。目の前で起きている事件を通報もせず、先ずはスマホで撮影したり.....一線を越えている・感覚がおかしくなっている気がします(そのせいで危機感や責任感も薄れたり)。......勿論、得られる情報等、利点もありますが「生活の全て」にならないように。画面を通した世界ばかりではなく、直に自分の目で心で...個で感じる事も大事にしたいです。

シトラスリボン

葉月

21.09.15 17:03

ウィルスによる恐怖心が及ぼす人間の様々な精神状態が、ウィルスよりも恐怖。考えさせられますね。自粛警察、今後、ワクチン差別もその一つでしょうか?厄介ですよね。


シトラスリボン活動。ご存知の方多いと思います。コロナ感染者、医療従事者等、差別、偏見を無くし、相手を思いやる気持ちが、ゆくゆくは、コロナ感染防止に繋がる活動広まってます。全国知事会会長平井知事の右胸に、シトラスリボンが優しく主張しているのをお見掛けします。 


ただ、地元の偏見の恐怖は、未だ根深い傾向です。仕事で他都道府県出張時、ローカル報道で観たクラスター感染学校名、職場名、店舗名公表一覧。敵はコロナ。徹底的にコロナと戦う姿勢。びっくりした次第です。県民性あるのでしょうか?


石井さんのメッセージ読後、BGMはLIFE IS WONDERFULでした。米米LIVEリハーサル多忙な合間に、親戚でもないのに、読み手の側に立って寄り添う距離感、このサイトは、有り難いことですね。コロナ渦、人間皆、精神強くあるべき事ばかりではないですから。今後も、御指導、御鞭撻、皆へお願いしたいところです。


カオスな時代を優しく乗り越える愛。忘れないでいたいですよね。





自己愛

ジェルフィッシュ

21.09.14 19:00

自己愛性パーソナル障害、怖いですね、増えているように感じます。想像力、共感能力の著しい欠落。生まれてきた時は自己愛しかない、他の情は育てる物・・!!そうなんですね、少し驚きました。自分も闇落ちしないように心を強くもたなくてはと思いました。

見えないことも悪くない!?

リリィ

21.09.13 22:09

時間を見たことがありますか?
感情は?
他にも、音、数、空気、温度、、、
これらは、目に見えないものです。さらに分類すると、
時間、感情、数は本当に目には見えません。物質として存在していません。
空気は、肉眼で見えないけれども、分子として存在しています。
音や温度は、空気などの物質を媒介して存在することができるものです。
これらのものに、恐怖を感じる人はあまりいないのではないでしょうか。
人間は、古代から、見えないものを表現するために、
時計、言葉(文字)、五線譜、数字、元素記号、温度計などを発明してきました。これは、誰かに伝えたいという側面もあるでしょうが、見えないものを可視化することで、不安を取り除いてきたのだと思います。

ウイルスのことも、免疫のことも、どれだけ分かりやすく説明されても、自分のものにすることがとても難しいです。しかし、分かろうとすることを止めてしまったら、そこで終わりだと思います。だからと言って、それを詰め過ぎたり、気にし過ぎたりして、心や体が壊れてしまっても元も子もないので、どこかで「気にしない」ような「見ない」という選択も必要だと思います。でも、それは見えないとは違うと思うのです。
見てるからこそ「見ない」という選択ができるわけで、分かろうとするから「分からない」のであって、考えていないわけではありません。この「分からない」という部分が、畏れとなり、心に棲みつくのではないかと思っています。
一方で、最初から目を背けて「見ない」「考えない」人たちも一定数います。石井さんの投稿で、たくさん名前がついていた鬼たち、悪魔。そして、傍観者。
自分も当てはまるなぁと思いながら、身が引き締まりました。

マスク、黙食、ソーシャルディスタンス、人との接触が絶たれた今の社会で、子どもの心は健やかに自由に育つのでしょうか。
面識のない方に電車で子どもをあやしてもらったり、病院の待合室で先輩ママに励ましてもらったり、そのような人との温かい関係をどうやって伝えていけばいいのでしょう。「マスクは鼻までね」と我が子の防疫のためというより、社会の責任を押し付けるような感覚で言っている自分に罪悪感を覚えました。
私も、青空を何度も仰ぎ見た2回目の夏でした。

今現在、これまでにないスピードでウイルスや免疫に関する研究が進んでいることでしょう。情報通信分野の進展も凄まじいです。ウイルスが可視化できるメガネかなんかができたら、今の私たちの不安や恐怖は軽減するのかな。
そしたら、みんなマスクにメガネになってしまいますねo-o
それも嫌だな。
それに、美しい空や人の表情にも、ウイルスが映り込んでくるのかな。
もっと嫌だな。。。見えないのも悪くないのかもしれません。

時間が経つのはなぜ早いのでしょうか?

美惠

21.09.13 15:03

昔よりもずっと1つの作業にかける時間は短いはずです。便利なものが増えて洗濯も機械に任せ、任せている間は他の作業が出来ます。洗濯板を使っていた頃はそれ一つだけしか出来なかったはずで、それならばその時間は機械がしてくれているのだから空き時間になるはずなのです。洗濯だけではなく色んな場面で便利なものが出来、空き時間は増えているはずです。
なのに昔より慌ただしく感じます。ゆったりと感じるものも減りそれを感じる時間も少ない。四季の移り変わり、風の僅かな香りの違いや温度の違い、光の明るさの違い、遠くの方でする懐かしい香りが冬は鮮明に感じる事や秋は穀物の実りの香りやまだ少し夏を残したオレンジ色の景色等、夏は水撒きや夕涼み、少し涼しくなった庭先で静かに虫の鳴き声を感じ優しい団扇の風や蚊帳で過ごす時間を楽しむ。絵になる景色は日常にもっとあったと思います。1つの動作ももっと多くてだからこそ生まれる美しさもありました。便利になり楽になったのかもしれませんが、仕草さは大きく単調になり男女の差も減り、趣は減っていると感じます。
空白の時間が増えたはずなのに、なぜこんなに慌ただしく、時間が経つのが早く何かに追われている気がするのでしょうか?
物理的に楽になり短縮が増えているのなら時間は増えているはずなので、考えられるならば人の心がただ慌ただしくせっかちなんだと思います。
その心がそれぞれにあふれているから全体的に慌ただしい。今同じものがある状況で、心に時間を一斉に持ったとしたら凄くゆっくりと時間が流れる気がします。余りすぎるほどに。

と、いうわけで!

石井竜也

21.09.11 14:07

色々と、知ったかぶりをしちゃっていますが、僕は自由ですから!笑・・・冗談はさておき、実は、こういう分野自体、何一つ、このジャンルの話には、世界的な学者でも、はっきりとわかっているわけではありません。おぼろげながら「多分、こういうこと?・・・だったんじゃねえか?と、・・・思うんです・・・・的な?」そんなレベルです。博士たちは、必死に、とっくに石化した骨と、5万年前の事をご相談していると・・・。大体「進化論」自体が、怪しさだらけですから。本当のことは、わかりません。ここにも、投稿されている、若い母親さんからの、ちっちゃな我が子への今の時代の悲しさ、不安、動揺、とてもよくわかります。なんせ相手が見えないことほど不安を引き起こす事象はないですからね。それでも、僕は一応、言っておきます。確かに、明日をも「危機感」としか考えられない時代です。でも、よくよく考えたら、人間という生き物は、危機感で成長してきたとも言えるのです。つまり「緊張感」です。その見えざる敵に、飛びかかるやつ、逃げ惑うやつ、隠れて出てこないやつ、何を考えていいのかわからなくなって、自分だけのお花畑に遊びに行っちゃうやつ、・・・考えようによっては、お花畑は幸せかもね(笑)いやいや、もっと、不幸はあります。それは、自分だけを不幸と思い込み、その吐口を他人のせいにし、何食わぬ顔で抹殺できる「異常者」になってしまう奴です。これが一番タチが悪い。なぜかといえば、このタイプに成り下がった人物を、仏教では「畜生道に落ちた」と言います。つまり「鬼畜」のことです。思いやりも、愛情も、優しさも、社会の秩序も、人間らしさまでも、無くしてしまった「生き物」のことを指します。厄介なことに、こいつらは増えるのです。新型のコロナより、たちが悪い病気は、こういう「輩」を指します。自分の不安の解消に人を殺め、楽しささえ感じる、もはや「人間」とは呼べない、単なる危険生物と化した「怪物」。世の中に、怪物というものがいるとしたら、こういう「殺人者」を言うのです。これは、たとえ人を殺さないとしても、それと同じくらいの言葉の暴力を平気で発せられる奴は、同じ「怪物」です。要するに、「緊張感」や「危機感」に勝てなかった者たち。ダークサイドに逃げ込んだ奴らを「悪魔」というんです。こいつらの武器は「無常」「無秩序」「無反応」「無関心」です。これらの精神要素を中心核として崇める奴らを、総じて「無法者」というのです。悲しいかな、こういう時代には、これらの怪物は増えていくのです。特定の少数派ではなくなる可能性さえあるのです。その心は・・・「自分本位」ということです。同じく「餓鬼道」に落ちるやつもいます。こいつらは、「自分」さえも持ち合わせていません。つまり「無邪鬼」になるわけです。こいつらの救われないところは「何も考えない」ということを、餌にしているところです。しかも極悪なことに「無頓着」で「無神経」です。こういう奴らを、社会は排除しながら文化を作ってきたのです。反対にいえば、文化的になるためにこういう奴らと戦ってきたと言っても過言ではないのです。「まとも」なんてのは、こういった奴らからしたら、どうでもいいんです。しかし、もっとタチの悪い奴らが存在しています。それは、こういった「悪魔・怪物」のしていることを、他人のフリをして、遠くから眺める奴らです。こいつらの心の確信には「俺には関係ないから・・・」という「確固たる信念近い、不純物」に汚染されてしまっていることさえ、分からないでいる状態の人々を指します。こういう人たちを「傍観者」と言います。かろうじて人間ですが、すでに足元は「悪魔の領域」に入り込んでいる人々を指し、悲劇は、この領域の人々が、かなりの範囲にいることです。どっちにも入れないでいることを、唖然として見ているだけの人々が、社会の中間層に多く存在し始めた世界では、ことの「善悪」を決める事ができなくなります。つまり「社会的責任麻痺」をひき起こします。ぼくはこれが一番怖いのです。コロナなんかの何十倍も怖い事です。少なくとも人間の世界では、一人一人の責任が子供の頃から培われ、大人と言われるようになれば、その責任において「軸」とします。この「軸の概念」がなくなるのです。人の愛は、実は不自然にも似た努力からでしか作り出せません。生まれつき備わっているのは「自己愛」だけです。これを他人にも使えるように努力する意思を「愛情」というのです。これは「芸術の概念」でもあります。たとえば「歌う」それを「聴いてみる」という関係や、「絵を描く」それを「鑑賞する」。これはすごい感覚で、他者への敬意であり愛情です。この感覚を持ってこそ、このようなカオスの時代も生き抜けるのです。自己愛だけを振りかざし、それを「善」と考えることは、飛んだ間違いにも程があるというものです。人間の関係性や社会生活の全ては「微妙」という言葉からできています。これは非常に脆く崩れやすいのです。自分の思うようにはいきません。誰しも、これをわかっているように考えるのです。「わかっている」と「理解」の違いは、「当たり前じゃん!」と「読み解こうとする意思」との違いです。実は世の中のほとんどのものは「当たり前」なんて存在しないのです。現代の社会に生きるわたしたちは、この「わかってる!」に支配されています。この言葉を軽く使う人に「物事を深く理解」している人は、いません。むしろ「分からない」ということを理解している人たちの方が、数十倍優れているとも言えるのです。「感性」の最初の衝動は「どうして?」という言葉から始まります。この「どうして?」という疑問はその人に愛情が備わっている証拠なのです。例えば歌を聴いているとしましょう、その時に「どうしてこのアーティストは、この歌を歌っているのだろう?」とあなたは思います。そうなんです!「全ての出発点」は、そこからでしか、生まれないのです。空気は吸っているのに見えません、水は全てが飲めるわけでもありません、どの土にでも作物がタワワに実るものでもありません、空や海がいつでも優しいわけでもありません、同じように人の心も見えるわけでもありません、これもまた同じように、人の善悪も不思議なものです。善の中にも悪があったり、悪の中にも善があったりします。愛情もそうです、見えないが故にすれ違い、どれほどの愛情に包まれようと、それを感じない時もあるのです。数字と時間に支配され、お金と金額でしか物事を判断出来ないくらい退化した感情、今では情報の中の嘘を必死で探す懐疑心、悪意を隠すための優しい言葉、それを知っていても安心したい弱さ、欲望の塊なのに簡素化することで誤魔化す煩悩、失敗の反省も途中で切り上げ次の失敗に向かっていく愚かな人生観、このどれか一つぐらいは「私はまとも」と思っている人々にも、当てはまっているはずなのです。白黒写真の中に色を感じて、色彩として記憶してしまう感覚や、一本の線から地平線や国境、水平線やモラルの表現と、解釈はみんなが違うことになるはずが、単なる「一本の線」としか判断し感じることのできなくなってしまった感性。つまり・・・・・今のあなたの「不安」「悲しみ」「恐れ」「悩み」は、この「精神の簡素化」がひき起こしている、甘えと弱さにその原因があるわけです。いま思っていることを、一行、紙に書いて壁に貼ってみてください。多分、次の日には違う言葉を書きたくなります。それが「まとも」ということです。

まだまだ死にたくないな

愛虹ことり魚

21.09.10 22:55

なんか気になる症状があって、大したことはないかなって、そのまま治るかなと思っていたら、ずっと治らなくて。
いろいろやりたいこともあるので、念のため、その前にちゃんと診てもらいに行くことにしました。

そうしたら、びっくりな病気になっていました。コロナではないです。
それから、とっても大変な思いをしましたが、無事で良かったです。

このタイミングで、ちゃんと診てもらって良かったなと思いました。
もしも、このくらいは大丈夫だから、病院行きたくないなって先伸ばしにしていたら、もっとひどくなって、治るのが難しくなってしまっていたかもしれないです。
そう思うと恐くなります。

こんなご時世なので、病院行くのはなんとなく嫌だなって思っていましたが、ちゃんと対応してくださるので、不安になることはなく、いつでもどの病院でも、安心でした。
入院前にはコロナに感染しないように、いつもにも増して気をつけながら過ごさなくてはならなくて、PCR検査もちゃんとありました。入院中にもありました。
感染予防のためにしていることは、ほかにもありました。
本気で感染をしない、ひろげないという行動と意識は、こういうことなんだなと思いました。
入院中、面会は禁止なんですけど、その分、お医者様も看護師さんもスタッフの方も、心を寄せてくださったので、心まで元気になれました。
そのことも、すごいことだなと思いました。
コロナでお仕事が増えているのに。

あんまり好きではなかった病院が、いつのまにか好きになっていました。
ほかの患者さんも、つらいのにがんばっていて、私もがんばろうって元気をもらいました。
私も前向きになっていたみたいで、その雰囲気もほかの方にもいい影響があったみたいです。
お互いが、心の支えになっていました。
とてもたくさんの事がありました。
経験値があがりました。

最初の頃、もしものときのことも一応考えてみていましたけど、まだ死にたくないし、死なないんだろうなとは思っていました。
大丈夫だから、一日でも早く退院して、退院したら、コンサート行って、いろいろなところに行って、楽しいこといっぱいしたいな、おいしいもの食べたいなって、あれこれいろいろ思っていました。
明るい未来しか見ていませんでした。

閉鎖空間で、空も何も見えなくて、心が持っていかれそうな時は、音楽を聴いていました。
心だけは自由になれるので、とびまわりました。
空想の世界へ行くことができて、良かったなと思いました。

症状は軽くても、大きな病気になっていることもあるので、何か気になることがあるときは、自己判断は恐いなと思ったので、ちゃんと病院で診てもらったほうがいいなと思いました。
年齢的なものかな?運動不足かな?精神的なものかな?なんて思っていたら、違っていたこともあります。
ちょっと薬でももらって来ようかな、くらいの軽い気持ちだったのに、即入院とか。そんなこともあるのです。
病院も専門が違ったりすると、外れてしまうこともあるので、そこも結構大事なポイントかなと思います。
薬もらっても注射しても全然良くならなくて、悪化したり。
違っても、ちゃんと繋いでくれる所なら安心です。
いいお医者様にめぐりあえると、ちゃんと元気へと導いてもらえる。
がまんできなくなるまでがまんするのは、危険なのかもしれません。
健康診断もちゃんと受けたほうがいいみたいです。
でも、それだけでは不十分なのが残念すぎます。
健康診断の結果が大丈夫だからと安心していたら、病気が進行していた。
そこのところが、もっと充分になればいいのになと思います。

医療の進歩は、すごいです。
ずっと前より、この前より、さらにすごくなっている。
患者側の負担が、前より少なくなっています。
本当にすごいです。

体は神秘に満ちている。
実際に体感しました。
本当にすごいなと思いました。
器官のひとつひとつが、細胞のひとつひとつが、自分の小さなひとつひとつが、生きていこうってがんばっている。
少しずつ治って、元気をとりもどしていく感じはすごいです。
また自由に飛びまわれるようになりたいので、ゆっくりがんばれたらいいかなって思います。

皆さまも
どうぞご自愛わすれずに
お元気にお過ごしくださいね。

送信

Coco

21.09.10 20:43

溢れるものが沢山おありなのですね...

私もこの数週間考えていました。

最後の『歌』の件を読んでいると
以前に「歌はお経』と言われていたことを思い出しました。

先日、叔母が亡くなりお経を頂きながら
皆、静かに心を落ち着かせていました。
お経は亡くなられた方だけではなく残された遺族の為に詠まれていると聞きます。それは大昔から..

宗派は数あれぞ教えは皆同じ..のはずが..

なぜこの様な社会になってしまったのでしょう?

死を生かす事を失ったのが今の世界

美惠

21.09.09 06:30

死とは何かを石井さんの思いを読み考えました。歌は人の死があって重要な役割をしてきた。余りにも悲しみが酷いときはその感情さえ出せなくなります。無表情になったり逆にすごく笑顔を作ろうとしたり。側にいる人達がなんとかその気持ちを素直に出して心を救ってあげようと変わりに歌にし、心を開き痛みを流してあげようとしたのではないかなと思います。
人の死に向き合う事で悲しみを知り、その悲しみから救う為に寄り添おうとする、そうして心を知ろうとする事が日常の相手を知る事に繋がり、こうしてあげれば楽かな、こうすれば安全かなと、物や環境を発展させたのだと思います。
人が生きる為に、呼吸でさえ他の生命が必要で、人の生死を通し他の生命の悲しみも知る。他の生命にお世話にならなくてはいけないから、他の生命の為になる事を同時に考える。決して人だけ寿命を伸ばす事、生活を発展させる為だけに死と向き合ってきたはずではなかったと思います。
死というとてつもなく深い悲しみを知り、相手の悲しみを理解しようとする。他の生命の悲しみを知る。それは自分以外を思いやる事。一番大切な事で言葉が通じなくても身体が違っても察する事が出来、自然の僅かな変化も感知し互いに危険な事から救う為に必要な感性だと思います。
危険を感知出来るから共に生きていける。けれど思いやる事から得る感性を育てず、ただ生命や金銭に強欲になり便利な物に勘は任せ自然は科学的に全て理解できると大きな勘違いをし、感謝をわすれ自分の物だと生きていけば、必ず人が追いやられる時が来て当たり前だと思います。
今、世界は貴重な生命が亡くなり教えてくれる事を生かす事を忘れてしまっているように感じます。
もっと生かしてきたはずならば全てが物質や金銭の欲が中心ではなく、心が中心の世界が出来ていたはずで自然や他の生命もこんなに壊されていなかったと思います。
死。死は死んで永遠に亡くなってしまう事ではなく、その命が存在した事が永遠に生かされると言う事、生かす為にその死から悲しみを知り互いを思いやらなくてはいけない。生きる事は死を生かし心を育て続けていく事。沢山感じ自然との会話も楽しみ、他の生命との対話も楽しむ。温かい環を感じ心を満たすのが本当の生きると言うことだと思います。

寿命。そして死と愛、歌。

ジャッコ

21.09.09 00:02

石井さんの書き込みを拝読して(有り難うございます)。
「死」が訪れる事は生きとし生けるものの、逃れられない「定め」ですよね。今の世の中、特にそう感じてしまいます。
.....でも「寿命」というお話で。もう新たに細胞分裂や活性化する事も無く、肉体・様々な機能が衰え停止する...限界が来たという事。それも自然界の生物としたら普通の事ですが、人間は長生きを...不老長寿・不死を夢見たり。自分の帝国を築き上げた人は、特にそう思うかも知れませんね?(また脳が大きくなっても使い熟せなければ、宝の持ち腐れですし。)
それでも昔よりは、かなり寿命が延びましたよね。それは進化なのか?無理矢理に歪めて来た結果なのか?でも不治の病とされていたものや癌等が、今では治療・完治したりと有り難い事も多いと思います(衛生面でも)。また、どうしても大切な人達・存在には、元気で長生きして欲しいと願ってしまいますね...愛故に。
この命が尽きるまで...私は何が、何か遺せるのかな?と考えてしまいますが。.....でも、誰かの心に、ほんの少しでも存在出来て。時々、思い出して貰えたら...嬉しいな。

滞れば淀む。生と死、破壊と再生...新たな流れ・道、種・命を繋いでいく為には必要な事でもあるんですよね...。
そして「歌」。喜怒哀楽、様々な心を表現してくださいますね。時には吐露出来たり、浄化・癒やされたり。言葉(会話)よりも歌の方が伝わったりも。石井竜也さんの歌にも、沢山、寄り添っていただいていますよ...有り難うございますね。
また石井さんのお話から、映画『十艘のカヌー』が、頭に浮かびました。

気温差が激しいですが、皆様もどうぞ御大事に(御怪我が早く治りますように...)。

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