田舎で暮らすこと・・・。
石井竜也
14.02.27 03:25
この東日本大震災で、被災なされた多くの日本人が、世界の印象として、礼儀や、忍耐、人情を体現している国民として、大きな評価を貰いました。確かに、日本人の精神構造の中には、ある側面そういう風に見える場所も多く存在しています。しかし、田舎で生活をするということは、非常に難しい側面もあり、それは中規模都市や、大都会で生活している人びとには、理解しがたい部分でもあるのです。隣近所との付き合いが、家族より優先される場所もあります。良い意味でも悪い意味でも封建主義で、保守的であることの他にも、人の目、つまり隣近所の目を異常に気にしたり、恥ずかしいことは、その家系の恥とする文化も、日本の田舎と呼ばれる場所には、まだまだ存在するのです。「あの人の顔をたたせなければ、申し訳ない」とか、「こっちはあそこの家には、随分と、人情を尽くしたのに、香典は、これだけか?」とか、人数の少ない土地では、人とのつながりだけが、生き残る知恵、もしくは、方法論にまでなっているのです。家の中でのことは、絶対に他言はしてはならないし、特に、旧家となれば、何回も首長を務めた名士となると、その威力は絶大です。限られた人口の中で暮らすというのは、「面倒」な事との戦いだ!と言っても良いのです。ときには精神的に追いやられてしまう家族まで出てしまうほど、その土地その土地の生き方は、風習、人間関係が複雑に入り組んでいる場所が殆どです。そういう事に嫌気がさして、違う町や、東京のようなあまり人の生き方に無関心な場所を求めてしまう事は、僕にはよくわかります。下町と、オフィス街があんなに違うのには、こういう事実も絡んでいるかもしれません。お互い詮索はせず、限りなく『無関係で無関心をお互いに装おう』つまりは東京の文化の7割方は、東北のそういうしがらみの文化からの脱却を、『気軽だ』と感じる人びとで作られていると思います。まあ、この意見は、人口の少ない田舎で過ごす人なら、全て感じる事だとも言えます。考えてみれば、隣近所のある程度の情報なんか、筒抜けの近所付き合いですから、一旦、村八分にされたら最後、そこで生きて行くにも肩身の狭い思いをさせられます。そうやって、自分達の文化や悪疫を排除してきたとも言えるのですがね・・・。僕は少なくても、そういった田舎の性質を、子供の頃から、見てきました。時には、大人がいやになるほど汚く見えてしまう事もあるし、コミューンというくくりで考えたら、信じられないほど、助け合っているところもあるのです。要するにこれは、自然環境の厳しい場所で暮らす、人間の知恵だともいるのです。限られた資源や、厳しい自然環境で暮らすには、良い意味でも悪い意味でも、形見のせまい生き方をせざるを得ない事も多くあるのです。また、孤立は、田舎での生活の一番の障害です。今ここに書いている要素は、あくまで、「のどかな田舎の風景の裏の事情」というところですかね?だから、ある意味、違う環境から来た人への歓待は常軌を逸しているのか?と思うほど、手厚いです。都会に疲れた人は、その手厚い歓待をその地域の人情と受けとめてしまう人もいて、「ここは素晴らしい場所だから、ここに住むんだ!」と、丸の内の一流企業も辞めて、田舎暮らしを、のどかで心温まる人生の場所と来てしまう人も出てくる。ところが、一晩二晩、そこに滞在するのと、一生涯その土地で生活するのとでは、天と地ほどの差があります。生活を決めたその日から、まずは、その人、あるいはその家族がこの土地に適した人物かどうかの値踏みがあります。もちろん、その価値に匹敵すれば、下手をすると、食べるのに困る事がないほど、隣近所の手厚い保護が勝ち取れます。・・・が、一旦、その土地に適さないという判断が下れば、その時点でもう、その土地には住めなくなるくらいの無視が待っています。都会にもルールがあるように、田舎にもまたルールがあるのです。また、そのルールは、都会の場合でも、田舎の場合でも、非常に厳しい審査なのです。ウェルカムな性格じゃないと、田舎には不向きです。しかも、自分の利権は、自分が守らなければなりません。もちろん、親友が出来れば、ある意味、そこまでしてくれるのか?!と驚くほど、守ってくれる事もあります。大きな都市では、考えられない人間関係である事は、確かです。限られた人口の中で暮らすには、一種の足かせが必然的に出来るのです。それを不自由と感じれば苦痛ですし、これが人情だ!と感動すれば、なじめます。田舎で暮らす事をお考えのみなさんがいらしたら、まずは、暮らす町の人情の形をよく知ってからでないと、御勧め出来ません。しかし、これだけは都会も田舎も同じです。それは、「一生懸命に生きている人は、誰かが手助けをしてくれる、あるいは、見守ってくれる」ということ。いずれにせよ、どこで暮らすのも、そこに自分が、最初からアウトローとして、生きて構わないという覚悟があるのか?それとも、順応して生きて行こうとするのか?の選択を迫られるのは、同じ事かもしれませんね。都会しか知らない人から見たら、「助け合いの精神」と見える行為も、田舎で言えば「お互い様」という事なのです。その風土や土地柄に対して、力んで生きれば、誰も助けてはくれません。まるで100年もこの土地にいるかのような感覚で入って行ければ、確かに、田舎は天国かもしれません。土地をけなしたり、人の心を踏みにじれば、都会だって、排除されるでしょ?その小さな縮図が、田舎という社会なんです。縮図ですから、当然、その色も濃くなるという訳です。原発誘致問題や、市長選挙などで、時々見せる田舎の牙は、本来の人間が持っている欲望と、知恵なのです。それが、純粋なだけに、もろに見えてしまう瞬間を、僕は子供の頃から、いやというほど、見せられました。だから、アウトローの俺は都会に身を潜める決意をしたのです。故郷や、田舎は本当はとても愛しています。だけど、そこで暮らせるか?と言えば、僕には無理なのです。そんな理由もあって、アウトローである俺は、せめてもの恩返しのつもりで、東北の復興や、福島の原発問題を熱心に、考えてしまう訳です。まあ、変わり者のレッテルが張られただけ、確かに、生きやすくはなりましたね。だから、今は田舎の生活も、良いかもしれないとも思っています。今考えてみると、その境地にたどり着くまでの40年近くの道のりだったのかもしれません。でもまあ、考えてみれば、どんな土地にも、良いところと悪いところが、あるものです。「面倒」と思えば、全てが閉ざされてしまう。自分の世界に閉じこもりがちな日本人の気質は、こういうところから、構成されてきているのかもしれませんね。結局、礼儀作法も、その家系のインテリジェンスの証明なのですから。田舎で暮らす事は、結構大変です。だからこそ、俺は、小さな町の人びとの暮らしが、時々、いとおしく見えるときがあるのです。・・・・俺も歳(都市)かな?