命の問題
石井竜也
14.03.10 11:39
あまりにも多くの人間が病院に搬送されてきている映画やドキュメントなどのシーンを見る事がありますが、そこでは壮絶なまでの瞬間的判断が必要になるのですよね。命が助かる状態と、既に手遅れの状態である事を、どこで判断するのか?僕には到底理解出来ませんが、医者になるという事は、よほどの覚悟と、勇気が必要なのではないかな?と思います。たとえ、一個人に重い病巣を見つけた場合でも、その事実を、どう彼らが理解し、対処して行くのでしょうか。自分の父親の晩年の頃にも、的確なる説明を受けるのは、最後の最後です。その前の日までは「努力はしてみます!」という言葉に一途の期待を胸に、でも、どこか自分の中では、最悪の状況を想像しながら、覚悟をして行きました。その時に一番感じた事は、ファンの皆さんから、多くの「肉親を亡くしました」というメールや、お手紙の重大性でした。音楽は、そういう方々の肩を叩くのではなく、ただ横に寄り添い、ゆっくり背中をなでるような感覚のものなのかもしれないと思い始めたのも、その頃からでした。それまでの自分は、「感動」をなんとか作って行きたいという漠然とした、しかもプロとしての意地のようなもので自分に言い聞かせていましたが、今は全く違います。「人にはそれぞれの状況や、人生、環境、考え方があり、それぞれが、必死で生きているんだ」という実感です。そこにはまた、自分も実は入っていて、「人生を歩いているんだ」という考えに至りました。口だけで、「ステージは客席までのびているんだよ!」とか、軽々しく米米の頃は、うわごとのように言い続けていましたが、今は、僕自体がだいぶ変わりました。今は、ステージに上がっているのではなく、たまたま後ろの方が見えないので、高い位置に立っているけど、実は、俺が聴いて下さる方々のすぐ横に行くのかもしれないと思って歌っています。命に向かって歌うという事は、謙虚になり過ぎてもまだ足りません。このごろ、感じる今時点での自分の中の結論は、「自分もまた、命である事」。これを感じて初めて、皆さんの横にまで歌を運ぶ事が出来るのかな?と思っています。被災地の現状は未だ、変わってはいません。国は、行政は、国政は、・・・と、政治家に期待しても、結局彼らも、権威を持っているというだけで、決める権利は、国民にあるのだと思います。ひいては自分自身にあるのかもしれませんね。親身になって物事を遂行できる政治家を、選挙によって選ぶ事。これこそ、大きな僕たちの選択なのかもしれません。これもまた直接命に直結した問題なのかもしれませんね。要するに命は、自然や社会と絶対に切り離す事は出来ないという事でしょうか?自分が生きるのではなく、人生という環境の中で、僕らは生かされている。もしくは、生きて行かなくてはならない責任があるのだと思います。