現実社会と幻想社会。
石井竜也
14.04.03 03:20
私たちは、ある意味、この二つを行き来しながら、なんとか正気を保っている存在でしかないのです。現実社会での自分は、あくまでも秩序を重んじ、出来るだけ言葉を慎み、大人らしく振る舞う「ただの人」になりきる事に、全神経を集中させて、かろうじて「いっぱしの社会人」を演じきってるに過ぎないのかもしませんね。日本でよく言われる、本音と建前は、実は、自分を社会的弱者の側に傾けないようにするための必死の防御作用なのかもしれないな。幻想の世界は実はその人の本当の姿で、現実社会では、幻想の自分を造らなければならない必死の攻防が行われていることに気がつかないまま、実は使い分けているのかも?そう考えると、自閉症だの何か障害を持っている事って、現実と幻想が同時にその子やその人の中で出てしまう現象の事なのかもしれませんね。多分その感覚は、全身の皮を一枚むかれて、真っ赤になった肌の痛みのように、ひりひりと常に痛みを伴う感覚に等しい過酷な条件なのかもしません。普通はきっと、現実社会に傷つけられたり、疲れたりしたら、旅行や、人との会話、あるいはエンターテインメントの世界で現実から少し離れる事で、それを癒しながら、調整しているのかも?だけど、俺はそもそも、現実社会の方が遥かに、「悪い夢」のようであると、ずいぶん前から気がついていました。平気で人を見下す人、悪い事を悪いと判断出来ないでいる人、どんな事からも逃げる事しか考えない人、誰かに自分の罪をかぶせる事でただ浮遊して生きている人、責任や立場を全く感じていないとしか思えない人、他人には何の興味もなくただ無節操に自分のみの満足だけを追いかける人、お金の事で頭がパンクしそうな人、一つの事に執着し過ぎて過剰に嫉妬と妬みを糧に生きている人、これ全部、異常と言います。だけど・・・悲しいかな、誰でも、この中の一部分を持っているんです。そう考えると、人間の欲深さとか、愚かしさとか言う物は、実は自分にもあって、誰かを傷つけているかもしれないのです。それに気がつかない限り、この現実社会の悪癖や悪夢は続くのかもしれませんね?オーティズムの方々を社会が受け入れ、もっと、人間的に、もっと、自然に接する事は、今の現実社会では、まるで夢見ごとのように思われている。特に日本はその兆候が顕著な国です。しかも、そういう人びとを、理解しようとする教育や運動が起こらない。この社会ではオーティズムの子供達はひとくくりで考えられ「問題児」として扱われ、彼らの個性は完全に抹消され続けてきたのです。それは、この社会体制に置いては、「面倒だから・・・」に他ならない考え方ですよね。文化や文明の発達は、精神も伴わなければならない事を、世界が知らなければならないんです。この間のソチ・オリンピック・フィギュアスケートで、俺はこの世界が抱えている問題を、見られた気がしたのです。グローバリゼーションという危うい基盤と、勝者と敗者を必死で追いかけている民衆。だけど、浅田選手が、その壁を一部分壊す事に成功した。彼女の態度や立ち居振る舞いは、世界の賞賛になった。それはひたむきに、自分の役割以上の重圧を乗り越えたところを、世界に見せたことにあります。彼女のフリーでの演技には、まるで何かが宿ったかのような神々しさに限りなく近い輝きを放っていた。世界はそれを見逃さなかった。悪質な汚い金と裏取引をしている審判員がいたとしても、おそらく涙を流したと思う。いや、そう思いたい。コソコソしている悪の要素が、はずかしくなるような、純真さと真摯な行動として、映ったのではないだろうか?本来の人間の勇気や感動、希望や理想というのは、実は、現実社会にも存在しているし、夢の世界にも、汚い金が渦巻いていたりもする。世界は一人の人間によって形作られている事を、俺たち、一人ひとりがもっと真剣に向き合い、考えた方が良いのかもしれない。誰でも解っている果物に、どこのスーパーでも、「これはリンゴと言います!」とか、レッテルを張らない。簡単に人にレッテルを張って行きていく社会は、もうそろそろ、終わりなのかもしないと、浅田真央ちゃんが、教えてくれたと、俺は思っている。そのうち彼女との対談もしてみたいと強く思う。金をとった羽生君はヒーローとなり、真央ちゃんは世界に感動を与えた人であると、俺は思います。結局、人の感性は、勝敗より、どうその大きな運命に向き合ったか?という事に感動と生きている意味を見いだすのだと思いました。