情報という名の落とし穴。
石井竜也
14.08.01 12:05
人間社会の根幹の部分が、今では『情報』という目に見えない敵との戦いなんですね。昔は、「一人の時間は、自分を見つめ直したり、せいぜい、映画を見て発散したりと・・・」自分個人として、自分を見つめる良識ある孤立の時間を持つ事が出来たのですが、今は、インターネット、極悪サイト、から始まって、何気なく、言い放つあの投稿者達の心ない、WWW(ワラワラ)とか、絵文字みたいな気味の悪い表現。最初は、キーボードを使っての工夫だったのでしょうが、今となっては、なんだか、気味の悪い「悪癖」にしか見えませんね。この間、高校生くらいの女の子達がケイタイ片手に絵文字の比べっこしていたときは、ゾッとしました。あの小さな世界でしか、自己表現を考えられない友情?・・・同士?言い方は、解りませんが、気が合うという表現より、むしろ、同じ美意識にしか結びつきを持たない冷血な人間関係を構築してしまっているようにしか見えないのは、僕だけでしょうか?だから、中学生にもなれば、自分だけの世界というのが、パソコン内に現れ、顔も見た事のない、嘘も本当もごっちゃな世界に、バーチャルな「友情劇」を作り出す。送り手が受け手になり、受け手が送り手になる。ミサイルと同じ論理ですね。打ち込んでしまえば、そこで何が起こっていようがかまわない。顔も見られないし、罪悪感も生まれない。肉が挽きちぎられ、内蔵が道ばたや、壁、そこにいた人びとに、血飛沫が跳ね上がる。そんな光景は、薄いパソコン画面の中に、『興味』としてみる事はあっても、殺された側の心情を掘り下げるまでには至らない。これは誰も予想のつかなかった時代の様相ではないでしょうか?それこそ、自殺の仕方から、遺体映像、噂に寄ると、闇サイトでは、危険ドラッグの買い方、斡旋に始まり、遺体の防腐処理から、解体までを、説明するサイトまであるそうです。こうなると、既に「家庭内の・・・」とか、「親の躾が・・・」とかの、範囲を十分に超えてしまっていて、親が監視出来る余地があまりにもないのではないでしょうか?要するに、個人的という言葉が通用しない。だから、責任も感じない。孤立は、孤立じゃなく、妄想と、事実という皮をかぶっただけのインターネットを見る事で、世間とのコミュニュケーションも取れていると勘違いする。実社会に出て初めてわかる、会話の難しさ。言葉をのばさないままに、社会に出る訳ですから「品性のある言葉使い」や「思いやりの意味」そんな物が欠落した、『超個人主義』の社会が出来上がってしまう。かといって「利己主義」にまで、確立する勇気はない。どこかで、繋がっていたい細いロープが、サイトだったり、ケイタイのメールだったりするのでしょう。使い方と、依存の程度で、きっとこれからの人間社会は、大きな転換を余儀なくされるかもしれません。世界の問題の80%くらいは、拡散された一方的な情報により、偏見も、喧嘩も、差別も、強いてはそれが戦争にも繋がって行くのかもしれませんね。恐ろしい時代になったもんだ。