利用したいと画策する欧米と、自国の誇りを取り戻そうとする亜細亜
石井竜也
14.09.23 08:07
亜細亜の美学と、欧米列国の文化の違いが、悲劇を生んだ過去の時代背景。大きくこの二つに世界は別れています。安い賃金で家事から、ビル建設までさせようとする奴隷主義と、なんとか貧困から這い上がろうとする亜細亜の焦り。1980年代までは、その均衡はある程度は、とれていた。ところが2000年を迎えると同時に、欧米をもしのぐ製品を作り出し始めた亜細亜各国のスキルアップ。日本は、その先駆けとなった亜細亜列強のモデル・ケースとして、亜細亜を牽引してきたのです。ところがここに来て、それぞれの国は、亜細亜という大きな括りでは、到底ひっくるめられる問題ではない事に、各国の亜細亜国民は気がついた。1900年を中心とした、イギリスや、フランス、欧米各国の植民地支配から抜け出した亜細亜の国々は、その成功の形を、「日本」にシフトしていた。ところがふたを開けてみれば、アメリカの操り人形にされている、惨めな国の体制が、この頃、亜細亜諸国にも見えてきてしまった・・・・.要するに、化けの皮が剥がされた状態ですかね? でも、僕の意見は少々違う。日本人の勤勉さと、新しい物を作り上げる能力の優れた国民性が、実は、根底にはあるのです。どの国も、自国との美学と照らし合わせて物事を考えます(そうせざるをえないですからね)。そして、今現在、大きな時代の変遷期になったのです。どなたかが書いていらっしゃった『共存』と『共栄』は、僕の今回の『共存』というテーマとは、少し違います。僕の言う『共存』は、お互いの違いを認める事からの始まりでしかないという事なのです。私たち亜細亜の民は、この一世紀ほどのほとんどを、欧米の奴隷国家として植民地にされてきた歴史があります。もちろん、その中に優れた指導者や、科学者、政治家等がいたのも事実ですが、大きく見れば、それは、亜細亜の片隅で起こる、チラチラした弱々しい、巨大経済圏への欧米に対する文句のささやき程度でしかなかった。人との関係と世界の国同士の関係もかなり似ています。やっぱり、得手不得手がどの国もあるように、それは個性として、その国の一番、得意とする事を認めてもらい、そしてそれを実行する。欧米は、今までの消費型経済資本制度から、開発資本制度に切り替わって行くのでしょう。実際、アメリカでも、自国での就労を心がけ始めたし、ヨーロッパでは、もう30年も前から、ユーロ危機にもめげず、自国の中で出来得る、または得意とするジャンルを経済の中心に置いて国を運営する、時価製品のスキル・アップを考え模索しています。ところが、圧倒的に人口の少ない、ヨーロッパ各国の実情は、巨大市場に出るには、小さすぎた。やっぱり、亜細亜の強力な人口的就労生産性には、到底叶わない事を、思い知らされた形が、1990年代の世界の動きでしたよね。そして、今年2014年。自由にならない国に、少しだけ焚き付けて、小競り合いを起こさせる、ミクロ・テロリズムが、蔓延し始めたのです。まだ、気がつかない亜細亜の人々。流入する膨大な情報と、誘惑の数々、亜細亜はまた、その誘惑に翻弄され、だまされ、経済のために身売りするのかもしれません。いずれこの日本も、あの中国と、深刻な状況を作られる事でしょう。戦争が巨大なリスクよりも、巨額な経済計画である事を、僕らはもっと知らなければならない。日本の中の事は、全て現代では、世界の情勢に確実に振り回されています。つまり、貴方のしている仕事、生活全部に、世界情勢の波は確実に存在する、あるいは影響を与えられているという事です。僕の言う「共存」とは、そんな経済体質の中にも、まだ、自分たちの本領を発揮する場所があり、それを世界中で認め合う事から、またその国その国の特性と文化をお互いに解り合える時代が来ないかな?という意味の『共存』なのです。それは、強いては小競り合いの耐えない地域での女性の保護や、危険材料から子供達を守る方法でもあると、感じたからです。世界は、少子化と経済問題、環境汚染や、医療システム、多様な文化の消失という、新たな問題にぶちあたっているのです。朝日新聞ねつ造記事問題が、この日本がいかに変わったかを裏付ける事案になっています。この騒動に、今の日本の縮図を見る事が出来る。「罪を犯した会社に選ばれた記者たち」が「都合のいい状態で適当に謝罪会見出来る記者」に対して、謝罪し、追求し、糾弾する、共食い状態。これでは、絶対に、物事の本質は見えない。そのたった何行かの文字で、世界にどれだけの迷惑がかかったのか? また、自国の国民がこの誤報により、どれだけの財産を投げ売らなければならなかったのか? ペン先で物事を考える人々には、社会で生きている自覚がないのかもしれませんね。「ギャザリング」という言葉があります。・・・自分には関係ないように、ただ事の成り行きだけをうわっつらで、面白そうに眺めている極めて残酷な『傍観者』という意味です。既に、津波がおしよせているのに、足下が見えなくなるまで、水が上がってきているにもかかわらず、まだ観ているだけ。今のこの国と世界の状態です。その国の民意を計るには、社会的に弱い立場の人を、どれだけサポートしているのか?で判断されます。会社幹部が謝罪と称して、フラッシュが嵐の様に降り注ぐなか、テカテカの頭を頭を下げている光景を、我々はこの50年くらいの間に、何回観ているのでしょう?