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ある兵士の物語。

石井竜也

14.09.25 08:22

その日は、兄弟3人と戦争に徴兵され、奇しくも、兵役免除で、家に戻された。弟達は、みんな旧大日本帝国陸軍に所属。第二次世界大戦の頃の話だ。その人は、弟達と、お国のため戦いたかった。弟達の活躍を手紙で知るたびに、彼は、兵士になれなかった自分のふがいなさに、いつも情けなさを感じていた。そんなさなかにも、生きて行かなくてはならず、日本は一層、配給物資が少なくなる一方だったので、皮肉にも彼の作ったお菓子は売れた。兵役について1年目の秋、一番下の弟が、サイパンで戦死したと、通知が届いた。遺品は、旧陸軍勲章たったの一つ。彼は、送られてきた小さな箱の中に、手紙を発見した。読むと「兄貴と、もう一度、釣りに行きたい・・・」と走り書きで書かれていた。その手紙は、僕が小学校のときに、仏壇の引き出しから、見つけた物だった。話を戻そう・・・。彼は、兵隊になりたかった。弟の敵を討ちたかった。徴兵に落ちたのなら、兵学校への編入を希望し、関東兵学校を受験。元々優秀ではあったため、すぐに編入は決まった。しかし、彼が兵学校に通い始めた頃、既に日本の敗戦は、色濃くなっていた時代だった。結局、通信士資格と、兵器管理業務という地味な後方舞台にまわされそうになるのだが、彼は戦いたかった。そんなときにもう一人の弟までもが、戦死した。彼はその優秀さを買われ、海軍の士官学校を出て太平洋で戦艦とともに沈んだ。遺品は、あるはずもなかった。弟達の敵を討つために彼は焦っていた。早く敵を一人でも倒し、弟達の無念を晴らしたかったのだ。そんなときに、発覚した腸チフス。彼は敗戦を、病院で迎える事となるのだが、当時男子3人1女子の父親でもあった彼は、自分の町が空爆にあった事を知る。港にへばりついているような小さな港町なんかに、なぜ? 結局、気まぐれで落とされた焼夷弾で、町は粉々になった。年老いた父親が、頭に爆弾の破片を受け、重体。彼はふらふらの身体を引きずって、2日かけて、自分の町に歩いて帰った。そこで見た光景は、焼け野原と、犠牲者の山。酷い匂いが町中に充満し、吐き気をもよおしたという。彼はようやく家族に会えた。奇跡的に、自分の家は半壊で、全焼は免れていたが、状況は酷い物だった。そんな中、自分の父親の瀕死の姿を見た。達筆な父親は、懐に、手紙を持っていた。差し出し先は、自分であったという。いろいろ書かれている中にある言葉を見つけた「負ける戦争に参加する事は愚かだ。弟達の御霊になんと説明するのか?兄を思いながら死んで行ったに違いない、二人の命を弔って行くのが、お前の使命である」その人は、死に行く父親の前で、自分の情けなさに、泣きじゃくったと言う。東京大空襲の3日後の事であった。彼の父親は、文筆家を目指し東京で新聞社に入社していたが、胸を患い田舎に帰ってきた。死ぬ間際まで、一冊の小説でもいいから書きたかったと、言っていたようだ。そして迎えた終戦。自分が生きている事を、彼は一生恥じていた。彼の口癖は「芋の皮むきもできなかった・・・」兵士になれなかったその人は、戦後、弟達と家族を養うため、家業である小さな製菓店を町一番の大きな店にする程、必死に働き続けた。やがて息子達は、東京の大学に進学、3人共に努力し、いい大学にも入学出来た。孫が生まれ、彼は老人になった。だが、口癖は変わらなかった「芋の皮むきも出来なかった・・・」彼の庭を観てタバコを吸う横顔は、いつも何故か寂しそうだった。元気な頃の彼の身体に前掛けがなかった姿を観た事がなかった。孫達に囲まれた正月でも、彼は、いい年になった息子達の酒盛りに一緒に参加している姿を、観た事がなかった。正月気分に酔いしれる幸福な家庭と、その頃の僕は、楽しくてしょうがなかった。彼は「おじいちゃん」と呼ばれる年になっていた。享年88歳。うちのおじいちゃんは、お尻のポケットにいつも入れていた物があった。それは小さな手帳だった。職人らしく、砂糖の分量とか、片栗粉の入れ方等、細かく記してあったが、一番最後のページには、2人の弟達の写真が、挟まれていた。怖かったイメージのおじいちゃんには、悲しい思い出が忘れられずにいたのだった。彼の父親の手紙は、祖父とともに焼かれた。兵士になりたくても慣れなかった、兵士の話である。・・・それが、俺の祖父である。

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