最近頻繁に起こる『パクリ』『ウソ』多発。
石井竜也
15.09.28 17:47
まさに、何かをお手本にして、それを自分なりのフィルターのもと、新しい表情として作り上げる事も、実はパクリなのです。まずはその事から話しましょう。アートの世界にも、同じような事が起こります。今までの巨匠とうたわれるとんでもない有名な画家達の絵や彫刻にもパクリはあるのです。だから、パクリは2000年前からやっていたという事になる。なので、僕には、どれがパクリなのかが解りません。パクリエーションという文化を活字にして作ってしまえばいいのに。昔で言えば「パロディ」まあ、ギャグの部類ですね。今回の問題の焦点は、僕に言わせれば、パクリの問題ではない。あのデザインを、よしとする委員会の問題です。要するにアレをよしとした方々の「感性のレベル」にあると言ってもいいでしょう。パクッた方は、病気ですから、しょうがない。罪がない訳じゃないけれど、僕は許します。本人ご満悦じゃないですか?・・・・やる気なくなりますけど・・・。だから、僕は、一切他の方々のステージも、コンサートにも、行かないのです。見るという行為を通じてでしか、何かが浮かばないのなら、この世界にいる必要はない。何もない所から苦しんでも、作り続けるからこそ、その人しか出来ないものが出来上がってくる。インターネットといういい媒体があり、そこではアイデアの大安売りが多発的に日常的に行われており、垂れ流されている。ヒントをそこに求めるアーティストっぽい人々。この何々っぽい人々こそ、ここ数年にでてきた、パクリ・偽装・ウソ家業の人々でしょう。なぜにこんな人物達が国の威信を掛けたマークや研究、インテリジェンスが一番必要な位置にいるのか?それは、本当のインテリジェンスと、オリジナリティーを知らないからです。元々、本当のオリジナリティーとは、自然や、環境、風景や、雲の動き、日水、草木、諸々の物からでてくる物で、誰か人間が作り出した物からのインスピレーションではない事なのです。そこに気がつかず、「アレって、かっこいいじゃん!!」で作るから、なんとかの一つ覚えのような物しか生まれない。そして一番の問題が、選ぶ側のインテリジェンスなのです。これはこの国の文化を左右する程の破壊力がある。古い固定概念に支配され構成された、選考する側の程度には首をかしげざるを得ない。デザインを、遊びと見るか?国の象徴と見るか?は、そのデザインがどういう意図を持って、デザインされたものなのか?という事に結局、踏襲されます。だからこそ、「誰にもない感性」が必要なのです。まあ、あまりにもユルキャラに毒されていますよね?俺のイギリス人の友人は、フナ○○ーを見て、「日本も終わりだな・・・」と、つぶやいていました。俺も同意見です。文化こそ日本は200年前の先人達の作品に、想いを馳せた方がいい。どれだけの力と、忍耐を持って一つの物を作り上げていたか?いわば、ものつくりの武士道です。