田舎?都会?この違いがわからない。
石井竜也
16.11.26 12:10
ビルがいっぱい立っていて、人通りがごちゃごちゃすれば、都会で、田園風景が広がり、自然の音が人の声より、多い場所。これが田舎。・・・まあ、当たっていなくもない。じゃあ、都会的な人と、田舎っぽい人という観点から、都会と田舎を見て見ると、これは、風景や、人口の問題ではないように思うのです。田舎にも、都会的な発想と、センスを有する人材はいますし、また、丸の内のど真ん中にも、田舎っぽい印象が拭えない人もいます。時に、ほんわかした、のんびり屋さんが、自分の焦る心を癒してくれたりもするのが人間社会には必要不可欠なのです。こう考えると、都会と田舎を、両天秤にかけて、なんとか的だ!というのは、とってもおかしな、ある意味の人間差別だと、思うのです。「君はどこの生まれ?」「あ・・・あの、長野です。」「ああ、自然がいっぱいあって、のんびりしていて、いいなあ・・・僕なんか、根っからの東京育ちだから、物事全てせっかちでさ・・ふふ」なんて、会話を聞くことも結構あります。確かに人間はその生まれた環境に適するように育ちますし、その環境に相当左右されるのも確かです。ですから、田舎っぽいとか、都会人的とか、普通に使っていますよね?でも、本当でしょうか?大都市で育ったから、都会人?田舎で生まれたから田舎者?・・・僕は、これこそ、間違った考え方はないかと、思っています。性格というのは、景色では決まられません。もちろん、多少の影響は当たり前だし、環境も大きなことでしょう。でも、物事の捉え方、感性の鋭さ、感受性の豊かさ、人との関係性、処世術、色々、重ねていくと、都会と、田舎の生まれた環境が、その人を磨くのではないということがよくわかります。確かに、人が多くいれば多様性や、競争意識、情報の多さ、人の味方、感性の磨かれ方、こういうことが変わってはくるのでしょう。でも、それは、都会に生きていても、田舎に生きていても、欲したいという欲望が、あるいは情熱があるか?ということでしかないのです。多種多様な生活があるように、人間社会には多種多様な、生活空間があるわけです。でも、その中から、自分の中での普遍的な価値を見出し、探し出す能力というのは、一種の「才能」です。大きく考えてください。私たち日本人は今でこそ、随分と海外旅行に行くようになりましたから、多様性に関しては、200年前の人間とは天と土地の差ほど発達しています。ま、これも、考えものですがね。実際に、100年も200年も前に、違う国を目指し、命がけで、砂漠を横断した歴史なども、世界中にあるわけで、こうした情熱は、自分の民族的誇りを背負い、違う、文化圏への勇気ある溶け込みだと、思うのです。ですから、一概に「昔の人は今ほど、情報がなかった論」は、間違いです。とんでもなく情報を学問として、記憶として、作り出すことにより、人間は、自分を表現してきたのです。だから、今の人類が未来人で、過去の人間は古代人と、判別するのも、田舎者と、都会人を決めてしまう感覚と、似ていますよねということ、デザインの世界では、過去から学ぶものは多く、情報過多の現代の方が貧相だったりすることも、あります。ジャングルに住んでいるから、未開人だ!と文明社会を営む我々は思いがちです。しかし、その環境で、どう生き抜き、危険な状況をどう対処できるかに、実は「感性」の源流があることは、ダーウィンの時代から言われていることです。そうやって広く世の中を捉えると、日本は、果たして、僕らが通常なんの疑問もなく言っている、都会でしょうか?ヴーーーー!!間違い。所詮、人類が生まれ、知恵を持ち、暑さや寒さから身を守るすべを会得し、家族や家を所有し、権利にたどり着くまでは、そう時間がかからなかったように思うのです。これはナワバリ、つまり、安住できうる生活空間を保持する感覚から、発展しているからです。人間の元来もつ、生活本能なんですね。そうなると、都会も、田舎も、そこを、収めていく、あるいはうまく人々を、丸め込んでいく言葉と、迫力を兼ね備えた人物中心的役割を持つ、人間が必要となるのです。要するに、知恵を持つものです。支配は、この知恵者から、発達してきた、現代に繋がる、格差社会という概念に直結しているのです。では、その知恵者が不必要だったのか?といえば、これは秩序の解決に非常に大きな役割を、果たしてきたと思うのです。世界は、同時期に、同じように、進化したと思われます。どこが、遅れていて、どこが、発達しているか?は、今では、金のあるなしと、科学力でしか、判断できていません。