青と黄の迷宮 ーフェルメールの神秘
KABE
18.08.04 03:00
美術評論家、フェルメール・センター銀座 美術監修 伊東順二氏の感性
1632年にデルフトで生まれ、1675年にデルフトで死んだ一人の画家が生きている間も、おそらく亡くなった時の葬儀の場においても、現在のようにレオナルド・ダ・ヴィンチにすら比肩するほどの評価は受けることになるとはだれも思わなかっただろう。
彼が生きた17世紀、それは絵画の黄金世紀でもあった。
時は古典古代の人智哲学と科学精神の復興であるルネサンスを経て、バロック芸術の最盛期を迎えようとしていた。南はイタリアのカラヴァッジョやベルニーニ、北はフランドルのブリューゲル父子やルーベンス、その上フランドルをも領有するハプスブルク家の王制が敷かれるスペインではまさに黄金時代と呼ばれる百花繚乱ぶりで、エル・グレスコ、ベラスケス、スルバラン、ムリーリョなど現在のプラド美術館の主要なコレクションはこの時期に形成された、と言えるほどの盛況だった。
80年戦争でスペインーフランドルから独立したオランダも例外ではない。風俗画のヤン・ステーンや風景画のヤン・ファン・ホーイェンなど逸材が輩出していたが、なんといっても美術史上最高の画家の一人と言われる「光の魔術師」レンブラント・ファン・レインを挙げなければならない。そして、はるか東方の長崎において、オランダと唯一国際的な通商関係を結んでいた日本でも早熟の天才・狩野探幽や「琳派」の主役、尾形光琳をこの時代に生みだしていたことを思えば、17世紀は世界絵画史上最も多産で実り多き時期だったのではないかとすら思う。
その画家たちの栄光の陰で、本名をヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフトという画家、ヨハネス・フェルメールは居酒屋の経営や義母の手伝いをしながら生計を立てて、独自の絵画実験を続けていた。巷間よく言われるように、まるで無名というわけでもなかったし、画家組合である聖ルカ組合の理事を2度も務めていたことを思えば、それなりの評価も勝ち得ていたと言えるが、前述の画家たちとは比べ物にならぬような地元の著名人くらいの存在だった。それが今は肩を並べるどころか、凌駕するような認知を得るとは当のフェルメールでさえ、天国で驚いているに違いない。
実際、フェルメールほど謎の多い画家はいない。巨匠という存在につきものの伝説もなければ、強烈な自我をその生涯に感じさせる逸話もない。彼が描く画面のように、淡々と誠実に生きた、というイメージしか汲みとれないのである。しかし、ダ・ヴィンチが言うように絵画が社会の鏡であるとすれば、この画家ほど自らの作品を鏡であることに徹し続けさせた者もいないだろう。「静かな観察者」、と呼ぶしかないが、その姿勢のせいなのか1866年にフランス人評論家トレ・ビュルガーが『ガゼット・デ・ボザール』で再評価の烽火を掲げるまで、忘れられた存在になっていた。この話にはビュルガーが認知した70点あまりの大半が贋作だった、という落ちも付くのだが、しかし例えば、荒れ狂う海よりも極端に凪いだ海の方が恐ろしさを感じることがあるように、特別な事件を感じさせない生涯はかえって作品の神秘性を高めている。たび重なる盗難事件や贋作事件も、その神秘性を彩る小舟でしかない。なぜなら、真の神秘は彼の作品の中にこそあるのだから。そして、その謎に近づいたのはようやく最近のことである。
「オランダのモナ・リザ」とも呼ばれる魅力的な眼差しで、少女が振り向いている。その口元に落とされた、たった1.5ミリほどの白い点。見落としてしまいそうな、わずかな筆致が、フェルメールの真筆だとわかったのは、マウリッツハイス美術館で近年に行われた修復のおかげであり、それまで、その白い点は、単なる画面のシミだと思われていた。以前の修復家が施した肌色の補修の下に隠れていたからである。しかし今、彼女を見つめる時、私たちの眼はその小さな白い点に釘付けになる。わずかに開いた口元に覗く白い歯の残照、もしくは窓から入り込む陽射しの反射ー
そのどちらであろうとも、この白の一点の効果が、まるで導く灯のように、絵画の深海の奥底までへも私たちを誘っていく。この光を描くことへの執着、そして、色彩の執拗な解析こそ、後にルネサンス以来のアカデミズムの伝統を打ち壊す印象派の冒険に大きな示唆を与えたものなのである。実は、この少女が描かれている《真珠の耳飾りの少女》と《絵画芸術》は、フェルメールが43歳の短い一生を終えた時、妻と11人の子供たちに残されたたった二つの遺産だった。静かな人生にしては莫大な負債が残っていたのである。現在、数百億円の価値があるとされるこの作品ですら、1881年にオークションにかけられた際には、たった3000円ほどの値しかつかなかった。
それにしても、一見さしたる特徴のないフェルメールの人生に比して、その作品はそれを補ってあまりあるように、驚きに満ちている。とりわけ《真珠の耳飾りの少女》はスフィンクスの謎かけのように私たちをとらえて離さない。それはあどけない少女の表情だけでなく、作品を描くために用いられた技術にもある。浮世絵を思わせるような独特の構図。振り向きざまを写真のようにとらえた(実際、フェルメールはカメラ・オブスクーラという写真機の原型を使っていたと言われている)不安定な構図、人物を浮き上がらせる背景描写、唇や耳飾りへの光の反射を明るい絵の具の点描で表現するポワンティエという技法の開発。そして、なによりも「青いターバン」である。
貿易の拡大により日本を含む東洋趣味が早くから始まったオランダではターバンは当時流行のファッションだった。二つの色調の異なった黄色、その二つをつなぐターバンの青の色面が少女の顔をいっそう際立たせ、内面までをも浮かび上がらせるようなドラマチックな肖像画を完成させている。青に使われたのはアフガニスタン原産の高価なラピスラズリだ。ウルトラマリンブルーと呼ばれる強烈な青と黄色の思いがけない併置が、この絵と少女と画家を永遠のものとしたのである。そして、 他の画家たちの作品ではあまり用いられない青色と黄色の組み合わせがふたたび姿を現すのは、オランダのもう一人の巨匠ヴィンセント・ファン・ゴッホの作品だった。同じ感性を持ち、あまりにも異なる印象を与える二人の画家。私たちはまだ、フェルメールという画家が残した迷宮のほんの入り口に立っているだけなのかもしれない。
