バベルの塔
石井竜也
20.01.27 11:28
一端の大人ならみんな知ってるだろう旧約聖書に出てくる、有名なエピソードですよね。アレは、古代バビロンに起きた悲劇として、人間のエゴイズム、奢り、全ての支配、欲望の放置・・・など、人間の浅ましさへの、天罰を、わかりやすく教えている物語ですよね。でも、今の世界を見てください。欲望の限りを尽くし、神にまでなろうとした、古代バビロニアの民たちと、私達現代人は、何処が違っているのでしょうか?物語は、文明の進んだバビロニア王国の、王が、神になりたいと言うとんでもない考えから、バベルの塔を建築し始めます。ところが、この行為が神の怒りに触れ、塔は、跡形もなく崩されてしまい、その後、残った人々も、今までの言語をすべて変えられて、二度と、徒党を組んで神の意思に反する行為に至らぬようにされてしまい、呆然としながら世界に散って行くというオチ。ここで語られていることは、今のこの国の威信をかけた、経済戦争にも通じる、「人間の奢り」の醜さを、象徴しているようにも思いますよね?人間が神と同等、あるいは、それ以上の存在を目指す場合、いつしか、地球上での人類としての価値は、なくなるということでしょう。神とは、いろいろ、名前を変えて世界に存在している概念ですよね。つまりは、人間にはどうしようもない、圧倒的な力を指す言葉でもあります。これは、人間の欲望を抑制するには、法律では、どうしようもないということのように、僕は解釈してます。言葉が通じないということは、かなりの努力の果てに「お互いの真意」を知るということ。少なくとも、議会制民主主義でも、社会主義でも、共産主義でも、人々の理想を煽れなければ、独裁も、ままならないということでしょう。結局、人間には、「言葉」と「理念」が必要だということです。このやりとりなくしては、愛情も友情もままならないということでしょう。政治で言えば、お互いの立場を共有しながら、交渉する力なのだと、思うのです。恨み、妬み、羨望だけで人を見れば、きっと、不幸な世界にしか到達できません。「尊重」のない場所に、文化・文明が花咲く土壌は、できえない!ということです。「他に対する尊重」「自然に対する畏敬の念」「命を愛し尊ぶ心」「科学や医学の発展に、戦いを持ち込まないこと」これら、当たり前のことが、今の我々人類に、果たしてできているでしょうか?自分の美学だけを強引に押しつけ、その向こうにある、黄金だけを狙うこの世のあり方には、常に不安と緊張と偽善が、隠されていて、心を解き放つ場所でも、自由を感じない。抑圧と支配だけが、ただの印刷紙幣に、人生まで狂わされる、社会構造。どこまでも、自己欲求の追求を行うことが自由であると、考える人々。これは、「神」が、もしおられたとしたら、酷く激怒するに違いありません。私利私欲だけを追い求め、無秩序であれば、この自然界でさえも、受け入れてはくれないでしょう。いや、宇宙をも敵にするしかない状況にもなりかねません。無神論者の僕がこんな事をいうのは、こんな、僕のようなチンピラでも、「この世は先行きがあまりいいとは言えない」と感じるからなのです。自己努力と、自己満足が全く違うように、人間には、自己を見つめなければならない使命、または、法則があるように、思います。何処でどんな生活をしようと、向上心は捨てられませんし、知識欲も止められません。でも、こういう人間の尊い力を、私達は有意義に使っているでしょうか?せっかく突き止めた科学や医学、物理学、薬学、社会学、このほとんどが、「欲望の追求」に使われてはいませんか?どんなに知識を高めても、結局のところ、一番大切な行動や、謙虚さ、善悪の判断を間違えば、知識を持っただけ、罪は重いのです。知っててやったことになるわけですからね。我々、人類はたった1万年にも満たない、歴史しかない生き物なことを、もう一度考えさせられる、今回のコロナウイルスの恐怖だと、僕は考えます。