助けるということ
美惠
21.04.15 06:14
誰かを助けるときに思う事は、自分の目線からではなく、その人にとって何に困っているか考える事だと思います。
当たり前の事のように聞こえますが、すごく難しい。人は自分が経験したことからしか想像出来ず体感も出来ないから。全て自分の中だけの範囲でしか憶測出来ません。
石井さんの文中の自然という意味を考えました。とても自然という事は、相手にとって普通という事、例えば私は右利きですが私にとって便利な事は左利きの人にとっては不便なのです。階段の手すりでもとても不便だと思います。支えるはずのものなのに、相手に寄り添わなければとても不便な物になります。
相手の事を考えるのですが、基礎に自分の事を深く知らなければ、何に困っているのかさえきっと見つめられないと思います。
私の祖母は、字が読めません。病院で伝えても直後に看護師さんが祖母に、お名前住所あっていますか?と直接訪ねたりします。
字が読めない、目が悪く見えないと判断されてしまいます。祖母の字が読めないは、幼い頃体が弱く学べなかったからです。私には当たり前の日常でした。なので、字が読めないが理解されなかった事に衝撃とショックを受けました。電動ベッドも、自動で出るお茶も便利なはずなのにすぐ使えないのです。この色、この形、押してねと何度も繰り返し教えるのです。この作業は、家族でしかできなくて完全看護と言われても完全ではありません。普段からこう言えば祖母に伝わるがわからないと出来ないのです。この便利なものに出会うたび、胸が痛みます。起き上がりもお茶かお水かもそれさえもすぐに動かせなくて、間違えたら怪我や火傷の恐れがあり、それが病院にあるなんてと思う。助けるはずのものが凶器にもなります。看護師さんにその事さえも伝える事はとても難しいです。
昔から、何故か心を救う機会に出会います。その時も、まずは自分の経験やわかることから推し量ります。その域からかなり超えて行かないと相手を救えません。同じような経験であるだけで、同じ経験ではないから。誰かを救う時、それは自分が最大に学ぶ時だと思っています。一般的に言われている、転がっている物では救えません。当てはめるだけでは解決に向かわなくて、もっと傷つけてしまう事になる。聴き方や角度を変えてやっと知っていけます。そしてそんなふうに感じそんな事に傷つきそんな事で解消されるのだと知り沢山学びます。救うという事で救われているのかもしれません。
今、世の中の流れを見ていて思います。間違った正義感に溢れていると。正義だと思っていることになんとなく賛同し声を揚げる。人数も多数だから乗りやすいのでしょうか。一旦受け止め自分の中で整理し訴えている姿には到底思えません。
祖母にしても、助けたいと思った相手にしても救うにはものすごい過程が必要なんです。自分のわかる範囲から記憶を呼び起こし、その上でなにか深く探る。なのに、あっという間に正義だという声があがっていくなんて、とても考えられません。少なくても間から自分を深く知っていれば、立ち止まる事は必ずすると思います。
一見、正しいということに安直に乗るということが、とても恐ろしい事に加担するという事を忘れないでいたいと思います。
自分を知るは、体の仕組みも心の仕組みもです。とても置き去りにされているように思います。
人の体である事があまりにも当然とされすぎていて、根本の見つめ直しがされるべきだと思います。