MIND BBS 〜掲示板〜

大切なお話。

石井竜也

21.06.18 01:17

僕は今日、オーストラリア映画「十艘のカヌー」をオーストラリア大使館で鑑賞して来ました。ありがたいことに、その場で映画の感想と自分の思いなどお話しする機会を設けていただきました。ここで、僕が色々と勉強になった点を、是非、皆様にお話ししたいと思います。観てきた映画は、全篇アボリジニ(オーストラリアの先住民族)の言語で構成され、アボリジニの意識や信仰、死生観や生きていく方法と哲学、男と女、家族や友人、子供達を守る方法論など、とてもじゃないが、僕らがその問いに困り果ててしまうような質問に、最も簡単に、しかも、笑いと誇りを忘れずに、紡いでいくストーリーテリングの方法論(語り部が、ある物語を語っているようなスタイルのこと)を取った、実に見事な自然を映し出した映画でした。デジタルで作り上げたわけでもなく、写りが陰でも全然気にせず、つまり、自然さえも、そのままを上映するような真実味のある表現でした。今の映画の、ほとんどが色彩を調整していますから、やたらとジャングルが緑だったり、曇り空をわざとCGで青空にしたりしますが、そんな手の指先の操作など、一切感じませんでした。そこで語られていたことがあまりの直球であり、誰しもが心に持つ感情と、自然界に生きる厳しさと喜び、人間であるが故の嫉妬、恋愛、憎しみ、恨み、これをどのように、賢く最小限の罰と、謝罪で済ませていくか?命とは一体なんだろう?・・・このようなとても、この文明社会とやらが、忘れてしまったお話を、ただ、淡々と、演技とも、自然ともつかないリアルさで作られた「十艘のカヌー」という映画でした。この中で語られていく話の深さと、生きて行くためのまさに「十戒」と言っても過言ではない、生き方そのものの奥深さに圧倒されました。まずは、僕が目から涙が出た言葉を、ご紹介しましょう。その先はあなたが考えてみてください。「私は魚だった、父が母を呼び寄せてくれて、お前の母親だと言うので、私は、そのお腹に入った」ここから物語は始まります。とっても素敵な話の始まりでしょう?次は「その昔、今から太陽が途方もないくらい上がっては落ちた時間の昔、ある村に、とても勇気のある戦士であり、良き夫であり、良き父でもあった男がいた(リジミラリル)。この男には3人の妻がおり、これは、野蛮なことではなく、勇気と責任感、そして何より愛があるからである。この昔話は、まだ、狩りもジャングルでの生活も慣れていないある若者(ダインディ)に、村から尊敬を受ける彼の兄である一人の男(ミニグルル)が、自分たちの先祖の話として、じっくりと語っている・・・という始まりだ。その若者は、自分の興味のある色恋の話ばかりを聞きたいとせがむ。そこで兄が言う言葉は「いいか、とても大切な話をするのには、十分な時間が必要なんだ。樹木と同じで、幹だけを話すことは愚か者がすることだ。土、雨、日差し、根、枝、葉の話をせずに、樹木を教えるとは言わない。昔話の中で、やがて、その勇者の男の二番目の妻(ノワリング)が、忽然と消えてしまった事件に移るのだが、妻が消えたのは、どうも、この間、よろよろと村に入って来た全然違う、言葉の通じない部族(アボリジニの言葉と民族は120以上ある)の男が怪しいと、勇者の男は嫉妬に燃えてしまう。嫉妬は男の判断を狂わせ、全く関係のない、同じ言葉を使う違う村の男を、勘違いで槍で突き殺してしまう。勇者の男に付き添っていった一人の老人(ビリンビリン)は、部族同志の大変な戦争になることを恐るあまり、その死体を隠した。「いいか、悪い精神で行ったことは必ず隠しおおせることはできない。それは、自然ほど人間は完璧ではないからだ」。やがて死体を見つけた部落の戦士たちは、槍の作り方、突き刺さった槍の削り方で、犯人を炙り出してしまう。「人の作ったものは、その人の癖がある。どんなに隠しても、犯人を探し出してしまう。偽りは、一番の隠れ場所だから・・・光が漏れるのさ」。そこで二つの村の男達による、罪のない男を殺した罪の深さがどれほどのことなのか?を篝火を囲んで裁定が行われる。ここは裁判と同じように、どっちの村からも、人生経験豊富で懸命な長老がひとりずつ、ついている。罰は決まった。勇者の男は、殺された部族の戦士たちの槍投げの槍に当たらなければ、罪はそこまでとする。しかし、当たって死んでも、どちらもそれ以上の事はしないというルールなのだ。いざ、槍が投げられると、勇者の男は最後まで槍を交わしていくが、最後の槍まで体力が続かなかった。男は腹に深傷を負いながらも遠い道のりを歩き通して、血だらけの体で、自分の家で倒れた。妻たちの看護も虚しく、男の命は、消えようとしていたが、そこに現れるのが呪術師でもあり、司祭でもあるような、村の冠婚葬祭、狩の豊漁などを占う占い師でもある人物。体に、泥絵具で見事に全身を染め抜いた男が、勇者の男の横に陣取り、人払いをする、死にゆく男の耳元で彼はこう言う。「お前の周りには今、死んだお前の父親が来ている。もうすぐこの体は動かなくなるが、心配する事はない、お前自身は風になり、ずっと、村の池で渦を巻いていくだろう」。ここまで言う司祭は、流れる涙を拭わない。この男のために、心からの別れをしているのだ。残された女達は声も枯れるまで泣き続ける。そこで起こる事は壮絶な事である。勇者の男は最期の力を振り絞り立ち上がり、死に際に戦士だけが許された踊りを、火の周りで、痛さと死にゆく体に鞭打って、死の瞬間まで踊るのだ。やがて、屈強な男でも、倒れる時が来た。段々と、死に近く頃には、女達の歌に変わっていく「私のお腹に戻ってきなさい、わたしの子として、生まれて来なさい」と、叫びのような歌を泣きながら歌うのだ。なんと優しく、荘厳に人の死を讃えているのか。でも、その歌や妻達、村人、友人に向かい、彼は最後の「ありがとう」の意味で、指を何度も動かすことで答えているのだ。・・・男が死んだ。・・・死とは、彼の父親が来て彼の心臓を止めてくれたのだ。
アボリジニの死生観は、ソウルとか神とか、スピリットとかとは違うように思えた。もっと、見えるもののように感じられる。彼の遺体には、村の池で風になり、父親と遊べるように、池の絵と魚の絵が描かれる。物語のお仕舞いはこうだ。「人は3人の妻を持てるかもしれないが、それは3人の命に責任を持つということだ。そして、食事に困らないように、子供達の世話に困らないように、大人にならなければならない。嫉妬などはしてはならない。嫉妬は人を狂わせるからだ、でも、妻を持てないものがいても、決して、馬鹿にしてはならない。人とはそういうものだからだ・・・だから、歩きなさい。生きている限り、生きなさい」これがこの映画のラストの言葉です。これ以上の言葉が出て人生教訓としてあるでしょうか?寛大で、命と、秩序を重んじ、殺人は許されない行為、それも、隠したり、嘘をつくことは、自然の万物に失礼な行為であることを、暗にこの物語は、深く語っているのだ。笑い飛ばしながらね・・・


追伸

 日本にも、アイヌ族という先住民族がいます。この話は、
 また今度、詳しくことの経緯と、彼らの明治政府による
 弾圧の歴史とともに、お話しさせてください。
 多分、驚いてしまいますよ。

最新の発言に戻る

category

【ATTENTION】
当サイトでは、BBS内に書き込まれたURLのリンク先の情報、またその内容から発生するあらゆる問題についての責任は負いかねます。

BBSご利用上の注意