大切なお話と十艘のカヌーと
美惠
21.06.23 06:34
最初に感じた映画の声。単調で静かだからこそどちらとも捉えられます。笑っているけれど、怒りや悲しみを感じます。
人は、自然の一部。神様が創造された一部。だから他の動物や自然と同じようにそれぞれの性を持ちそれを大切にし、命の操作もしない事が自然で、命が終わる時にはここにいた証とそちらへ戻りますという舞を踊るのだと思いました。
この映画を見、石井さんのその後のお話を聞きさらに大切なお話を読み、神やスピリチュアルではなくもっと目に見える事が死生観だと言う事を今も尚考えています。
十戒のようなは私も思いました。でもそれは神に近くどちらなんだろうと。今やっと気づいた気がします。
日常生活で目に見えない物は切り離しているのが現代で、本当は動物のように何万キロと離れていようが、生きる為の知恵をテレパシーで伝え合ったり、身の危険を勘で感じたり、悪いところは自信が持つ力で治癒させたりすることが人も動物だからできるはずなのです。なのに今ではその能力は欠け、不思議な事とされています。
アイヌ民族の考え方にも繋がりますが、ありとあらゆる物に神は宿ると言う事を普通に感じているからこそ、神は特別けれどいつも目にしているものなんだと言う事、それは目の前の人であり自分でもあり、光や水であると言う事なんだと思います。
人の能力は使わないと退化します。文明が発達し必要な能力まで消してしまい、医学を発達させ踏み入れてはいけないところまで踏み入れてしまっている。五感で感じるべき事を感じる時間さえ惜しむような現代では、とても自然の形とは言えず、生きづらくて当たり前でなんの為に生きているのかとなる事が当然だと思います。
この映画からヘイワ・ノ・セカイの歌詞が浮かびました。
本来の平和のあり方。心を通わせることだと思います。目に見えている事だけではなくてそこに動く気持ちを察する、それが出来たなら危険が迫っていても敵に知られず伝え合うことが出来ます。互いを深く見つめ合うから出来る事を今は何でも科学で解明し、形にしてしまう。それでは当てはまらないことが多々あるというのに。
映画の最後、私は皮肉でいっぱいだと受け止めました。本来の生き方を大切にしてはいるけれど、罰を与えるのに他の手段は無いものなのか、それ以前に奪い合う事は如何なものなのか、仲間を守るために行われている罰、その間にとても頭の良い人(ずる賢い人)が、自分の利益になるようにコントロールし、横目で見ながら幸せを掴んでいる、本当は自然に沿って生きる事こそ正しいのだけれど、正直者が馬鹿を見るような世の中なのかもねと思えたのです。
果たして、その正直者さえも本当に自然の神の意向に添えているのか、他の生き物から見れば失笑したくなるのが人の有様な気がします。
個性、個別の性、個別の在り方、らしさは必要でそれを尊重していく事ももっと大切にしていかなくては行けない事だと思います。
自然にパターンや現界はなく、科学で解明していると思う事自体、人間の傲りだと思います。
最大の危機に直面し必要となる事は、本来の在り方、本来持ち合わせている能力だと思います。だからこそ、他の生物の命と在り方を参考に学ばせて頂き考え直して行かない限り次々に訪れるピンチは越えられず未来もないのだと思います。
忠告されている間は、まだ許されているのだと言う事を受け取り、弊害が起きているところに問題があるという事を見つめなくてはいけないと思います。