と、いうわけで!
石井竜也
21.09.11 14:07
色々と、知ったかぶりをしちゃっていますが、僕は自由ですから!笑・・・冗談はさておき、実は、こういう分野自体、何一つ、このジャンルの話には、世界的な学者でも、はっきりとわかっているわけではありません。おぼろげながら「多分、こういうこと?・・・だったんじゃねえか?と、・・・思うんです・・・・的な?」そんなレベルです。博士たちは、必死に、とっくに石化した骨と、5万年前の事をご相談していると・・・。大体「進化論」自体が、怪しさだらけですから。本当のことは、わかりません。ここにも、投稿されている、若い母親さんからの、ちっちゃな我が子への今の時代の悲しさ、不安、動揺、とてもよくわかります。なんせ相手が見えないことほど不安を引き起こす事象はないですからね。それでも、僕は一応、言っておきます。確かに、明日をも「危機感」としか考えられない時代です。でも、よくよく考えたら、人間という生き物は、危機感で成長してきたとも言えるのです。つまり「緊張感」です。その見えざる敵に、飛びかかるやつ、逃げ惑うやつ、隠れて出てこないやつ、何を考えていいのかわからなくなって、自分だけのお花畑に遊びに行っちゃうやつ、・・・考えようによっては、お花畑は幸せかもね(笑)いやいや、もっと、不幸はあります。それは、自分だけを不幸と思い込み、その吐口を他人のせいにし、何食わぬ顔で抹殺できる「異常者」になってしまう奴です。これが一番タチが悪い。なぜかといえば、このタイプに成り下がった人物を、仏教では「畜生道に落ちた」と言います。つまり「鬼畜」のことです。思いやりも、愛情も、優しさも、社会の秩序も、人間らしさまでも、無くしてしまった「生き物」のことを指します。厄介なことに、こいつらは増えるのです。新型のコロナより、たちが悪い病気は、こういう「輩」を指します。自分の不安の解消に人を殺め、楽しささえ感じる、もはや「人間」とは呼べない、単なる危険生物と化した「怪物」。世の中に、怪物というものがいるとしたら、こういう「殺人者」を言うのです。これは、たとえ人を殺さないとしても、それと同じくらいの言葉の暴力を平気で発せられる奴は、同じ「怪物」です。要するに、「緊張感」や「危機感」に勝てなかった者たち。ダークサイドに逃げ込んだ奴らを「悪魔」というんです。こいつらの武器は「無常」「無秩序」「無反応」「無関心」です。これらの精神要素を中心核として崇める奴らを、総じて「無法者」というのです。悲しいかな、こういう時代には、これらの怪物は増えていくのです。特定の少数派ではなくなる可能性さえあるのです。その心は・・・「自分本位」ということです。同じく「餓鬼道」に落ちるやつもいます。こいつらは、「自分」さえも持ち合わせていません。つまり「無邪鬼」になるわけです。こいつらの救われないところは「何も考えない」ということを、餌にしているところです。しかも極悪なことに「無頓着」で「無神経」です。こういう奴らを、社会は排除しながら文化を作ってきたのです。反対にいえば、文化的になるためにこういう奴らと戦ってきたと言っても過言ではないのです。「まとも」なんてのは、こういった奴らからしたら、どうでもいいんです。しかし、もっとタチの悪い奴らが存在しています。それは、こういった「悪魔・怪物」のしていることを、他人のフリをして、遠くから眺める奴らです。こいつらの心の確信には「俺には関係ないから・・・」という「確固たる信念近い、不純物」に汚染されてしまっていることさえ、分からないでいる状態の人々を指します。こういう人たちを「傍観者」と言います。かろうじて人間ですが、すでに足元は「悪魔の領域」に入り込んでいる人々を指し、悲劇は、この領域の人々が、かなりの範囲にいることです。どっちにも入れないでいることを、唖然として見ているだけの人々が、社会の中間層に多く存在し始めた世界では、ことの「善悪」を決める事ができなくなります。つまり「社会的責任麻痺」をひき起こします。ぼくはこれが一番怖いのです。コロナなんかの何十倍も怖い事です。少なくとも人間の世界では、一人一人の責任が子供の頃から培われ、大人と言われるようになれば、その責任において「軸」とします。この「軸の概念」がなくなるのです。人の愛は、実は不自然にも似た努力からでしか作り出せません。生まれつき備わっているのは「自己愛」だけです。これを他人にも使えるように努力する意思を「愛情」というのです。これは「芸術の概念」でもあります。たとえば「歌う」それを「聴いてみる」という関係や、「絵を描く」それを「鑑賞する」。これはすごい感覚で、他者への敬意であり愛情です。この感覚を持ってこそ、このようなカオスの時代も生き抜けるのです。自己愛だけを振りかざし、それを「善」と考えることは、飛んだ間違いにも程があるというものです。人間の関係性や社会生活の全ては「微妙」という言葉からできています。これは非常に脆く崩れやすいのです。自分の思うようにはいきません。誰しも、これをわかっているように考えるのです。「わかっている」と「理解」の違いは、「当たり前じゃん!」と「読み解こうとする意思」との違いです。実は世の中のほとんどのものは「当たり前」なんて存在しないのです。現代の社会に生きるわたしたちは、この「わかってる!」に支配されています。この言葉を軽く使う人に「物事を深く理解」している人は、いません。むしろ「分からない」ということを理解している人たちの方が、数十倍優れているとも言えるのです。「感性」の最初の衝動は「どうして?」という言葉から始まります。この「どうして?」という疑問はその人に愛情が備わっている証拠なのです。例えば歌を聴いているとしましょう、その時に「どうしてこのアーティストは、この歌を歌っているのだろう?」とあなたは思います。そうなんです!「全ての出発点」は、そこからでしか、生まれないのです。空気は吸っているのに見えません、水は全てが飲めるわけでもありません、どの土にでも作物がタワワに実るものでもありません、空や海がいつでも優しいわけでもありません、同じように人の心も見えるわけでもありません、これもまた同じように、人の善悪も不思議なものです。善の中にも悪があったり、悪の中にも善があったりします。愛情もそうです、見えないが故にすれ違い、どれほどの愛情に包まれようと、それを感じない時もあるのです。数字と時間に支配され、お金と金額でしか物事を判断出来ないくらい退化した感情、今では情報の中の嘘を必死で探す懐疑心、悪意を隠すための優しい言葉、それを知っていても安心したい弱さ、欲望の塊なのに簡素化することで誤魔化す煩悩、失敗の反省も途中で切り上げ次の失敗に向かっていく愚かな人生観、このどれか一つぐらいは「私はまとも」と思っている人々にも、当てはまっているはずなのです。白黒写真の中に色を感じて、色彩として記憶してしまう感覚や、一本の線から地平線や国境、水平線やモラルの表現と、解釈はみんなが違うことになるはずが、単なる「一本の線」としか判断し感じることのできなくなってしまった感性。つまり・・・・・今のあなたの「不安」「悲しみ」「恐れ」「悩み」は、この「精神の簡素化」がひき起こしている、甘えと弱さにその原因があるわけです。いま思っていることを、一行、紙に書いて壁に貼ってみてください。多分、次の日には違う言葉を書きたくなります。それが「まとも」ということです。