メディアという浮遊物。
石井竜也
21.12.01 14:42
メディア、メディアと連呼されていた時代は終わり、インターネットなどの個人的思想の公表という方法論に、世界は変化した。それはまさに、「個人が何を考えているか?」という時代に入ろうとしている。個人の自由が実に厳しい空気にさらされるということでもあることを、僕らは気をつけなければならない。言葉は、その個人の考えを固定化し、物事によっては「あの人は、あっちだから!」と決めつけられる危険もはらんでいる。これは、人類で初めて起こる、思想の厳しい自由だ。人は、名前を隠そうとしても、おそらく当局は、個人名を出すことは簡単なことだろう。これは言い換えれば、人が野生に戻ったとも考えられる、あるいは、人類が一定の集団で生きていた時代から、野生動物のように、個体での団体意識を持つ初めての時代になるのだろう。そこに、より歯止めが効かない、コロナ感染も世界を覆い、個人主義の時代、個人の責任の時代に、移り変わろうとしている。これは、産業革命どころの騒ぎではない。人は「国単位」「団体主義」「集団権利」の崩壊を見るのである。今まで、それを見聞きしていれば、世間の大半を知っていると思い込まれていた新聞、雑誌、テレビ、ニュースも今では、個人が発する媒体にしか映らない。そこで言われているのは、プロデューサーなんかの一個人的意見からの側面でしか無いことを、現代の人々は、老人に至るまで知っている。これは、一つの自然淘汰だ。わたしたちが、声高に叫んでいたメディアの一党独裁が、崩壊に追いやられているのだ。ワイドショーは、井戸端会議以下の存在になり、ニュースは、上辺だけの情報のたった一つに成り下がった。全国放送とは名ばかりで、YouTubeでの視聴が中心の、時間・場所関係なしの何度も見れる録画状態でしか無くなった。人々の関心は、今や、自分の生活や心情をどこに向けていくかにシフトされ、気に入った情報しか見なくなり、その偏りは、メディアが闊歩していた時代より、浅瀬の広い火山島のようになっていった。ここで不具合が生じるのは、決して、高い火山だけではなく、中途半端な高さの浅瀬にできた火山も存在することだ。要するに「福徳丘の場」のような場所が増えたということだ。島にもならない、巨大な噴煙だけは揚げるのだが、一向に「島」になる気配は無い。こういう精神的な場所が、現代人を、異常行動に走らせる。今までは、手の届かない才能や情報を、まるで、コンビニで何かを買うように、簡単に手が届くと勘違いをする。しかも、その商品を作っている人々の顔は見えないし、見ようともしない。その内容物に含まれる成分に関しても・・・・。これは健康的な生活をするには、山にロッジでも作って、自給生活でもしないと乗り切れない状態だと思う。