MIND BBS 〜掲示板〜

今の状況を思う。

石井竜也

22.08.26 21:32

性別・年齢関係なく、不安が広がる夏の蒸し暑さが耐えきれないと思うのは、みんな同じだと思います。如何せん、そういう気分の落ち着かないご時世には、それなりの事件も、多発していますね。これをコロナのせいや、ウクライナや、中国の尖閣諸島問題のせいにだけはできないけれど、結局、未来なんて誰もわからないから、目に見えない恐怖のコロナと被ることで、日本人の穏やかな心も、多少荒れ気味になっていると思う、今日この頃です。人の欲望とは、一体何から派生して、どこまでも大きく膨らんでしまうのでしょう。猿からの縄張り争いの本能的なものでしょうか?それとも、人間しか持たない、体格以上の力を持ちたいがために、相手を騙そうが殺そうが、関係ないという、浅はかな動物だからでしょうか?これには、人間の持つ「恐怖」という概念があると、僕は思います。「恐怖」は、形がありません。心霊や、戦争、病気、死んでしまう、という事も恐怖の中にはあることでしょう。しかし、目に見えない、決められていない暗黒のような広がりに、人は、一番恐怖を抱くと、僕は思います。「ACRI」を作っていたオーストラリアの海で、鯨を撮影していた頃、僕は、小さな船で、8メートルの波の山を何度も経験しました。もちろん、それくらいの波の日には、撮影は中止になり、そそくさと港に戻っていましたが、「なぎ」と呼ばれる、比較的穏やかな海の日に、鯨さんたちも悠々と泳いでくるわけです。その海面ギリギリで泳いでくる鯨さんを、撮影するわけですが、その時の海洋カメラマンの名前をイアンと言いました。彼の家はすごくカッコ良かったのを思い出します。シロナガスクジラの背骨の一個を中心としたガラステーブルが、まず、目を引きました。なんでもジオグラフィックのドキュメント撮影の時に、深海で見つけたもので、引き上げるのだけで、10000ドルかかったと言って、笑っていました。彼の海への愛を感じる一言でしたね。彼は、ワインを飲みながら、こんなことを言ってました。「石井監督、僕は、海が一番怖いんです。だから知りたいんです!だから潜るんです!」って言葉は、彼の本気と、彼の何とも表現できない心の中を見たようで、危なささえ感じました。結局、人間は、興味を持つことほど、恐怖を感じているのかもしれませんね?さて、この頃の世界情勢に、一触即発の危険を感じているのは、何も自分だけではないと思います。この頃、妙に聞く言葉で「心の闇」という言葉。大体、人も動物もお母さんの身体の中にいる時には、「闇」に浮かんでいるわけですから、「闇」から生まれ、光で育ち、死はまた「闇」に帰るわけです。そう考えると、なぜ人間が、宗教や死後の世界を渇望するようになったか?がよくわかるのです。結局人間の恐れとは、「闇」が「無」であることが怖いのです。自ずと、見えない未来というのも、怖がります。結局、人間の恐れとは、痛手を負った過去の経験や目に見えない恐怖、自分が忘れ去られ、いたことさえも、思い出してくれなくなることの恐怖が、支配することだと思うのです。でも、考えてみれば、地球のあらゆる生き物の中で、死をこれほど、具現的に感じながら、日々を送っている生き物はいません。どんな種類の生物も、死を意識などしてはいませんし、自分の存在が消えていくか?なくなるか?なんてことは、考えてはいません。なぜなら、彼らにとって、「死」は日常で、珍しいことではないからです。「運命」とも思っていないでしょう。無邪気な「幼年期」、多感な「少年期」、冒険の「青年期」、自立の「成人期」、責任の「中年期」、そして、問題の死後を考えてくる「老年期」に大きく分かれる人生の流れ。しかし、「救い」という言葉に騙されて、結局わからない死後を、さも現存していると説く「宗教」という、生物の一生を死後も入れて「ありがたみ」を作る文化・考え方は、結局、「死」という恐怖から逃れるための、人間が作り出した世界です。病院のベットで亡くなるのも、事故で亡くなるのも、また、戦場の荒野で人知れず亡くなるのも、死には変わりがなく、そこに、心情が入る余地はありません。大体、死んでいく人には、記憶もないのです。記憶があるのは、むしろ、残された人たちです。宗教の教えも、結局、残された人々が作り出した「ファンタジー」とも言えるのです。死の恐怖を持ちながら生きていくという、とてつもなく複雑な環境の中で、人々は歴史を作ってきたと言っても、過言ではないはずです。自殺、他殺、戦死、事故死、老衰、これらは、死に方の種類を分類しただけのものでしかないのです。僕には宗教心はありません。それは僕は、誰の人生でもない、自分だけの人生だと、考えるからです。自分の人生なので、悩みも苦しさも「他人に歯の痛みを、説明するようなことだ」と、思っているからです。僕の中に宗教心と呼べるものが存在するとすれば、「大好きな人は、必ず、俺を見ていてくれている」ということくらいです。でも、彼らに責任はないし、罪穢れは、自分のしでかすことでしかありません。実は「死」とは、自分自身の問題で、恐怖にもなり、慰めにもなるということです。こういう不安な時代において一番大切なこと、それは、「死に向かって生きている」という考えを捨てることです。「死」は、死後の世界に生きられることではなく、この宇宙での真理の一つということだと、受け入れることでしかないのです。自然とは、こういうことなのです。生き物にとって「死ぬ」ということは、大切な「未来への架け橋」であると考えると、決して「死」が「闇」ではないことに気が付きます。同時に、死に「無駄死に」なんてことは、一切ないということも理解しないまでも、考えて行動し、一生懸命生きていく事しかないと覚悟することから、生命は進化し、繁栄するのです。「生かされている」と思えれば、今が大切であることに気が付くでしょう。今のこの瞬間も現在の重なりが人生であり、それこそが喜ぶべきことであるべきなのです。遊園地の乗り物を想像すると、面白いです。必ず、チケットを買って「乗り物」に乗り、ゆっくりと、ことは始まります。しかし、恐怖を通り越して、絶叫の中を通り越し、ちゃんと、最後には、乗り物から降りる時が来るのです。でも、ほとんどの人は、同じ乗り物には乗りません。次の恐怖へと、ワクワクしながら、次のスリルを楽しもうとするでしょ?恐れることや、スリリングなことは、結局、安全を確固とした約束事にせず、生命の危機的な状況の中でしか、人間は生きている実感を得られない動物な訳です。

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