死生観を共に共有する。
石井竜也
11.10.04 21:59
「人生」という言葉があります。この言葉は、一つではありません。地球上に60億以上の「人生」があって、そのどれもが全く違う方向を向いて歩いていたり走っていたり、転んでいたり、またこの瞬間に消えていったりしています。夜空を見ると、それがよく解ります。同じように見える星もよく見ると、同じ星なんてない事に気がつく。人間は、それでも、少しの違いや食い違いを克服しながら、小さい村や大きな村を作っていく。小さい村は、友人や、家族、兄弟。大きな村は会社や、社会、国家・・・と、きりがない程、大きくなります。一つの命が生まれ、一つの命が消える。俺の家族で言えば、娘が生まれ、父親が死を迎える。だけど、今度は自分の番である事も同時に覚悟する。よく、人生を、運命的に考える人がいるけれども、何も決まっていないという事を、今回のような大きな災害に教えられる。僕はこう思っているんです「生きているという事は、次の瞬間を作り出し続けている行為」それは、病院の死の床にある人間にも共通してあるもので、決して、時間の長短ではないということ。それでは、「死」とは、なにか?それは、次元の違う空間に移動する事。一見、死の形相はグロテスクに感じたり、気味悪く感じたりするものだけれど、死者に対して、冒涜は絶対にしてはいけない地球的・・・いや、宇宙的な規則である。でも、死は、おそかれ、早かれ、必ず、万物生きとし生けるもの全てに訪れる生命の「輪廻」。俺は何の宗教にも入らない代わり、どんな宗教も否定したりはしない。それは、人の人生への冒涜になるからだ。人間には、どれほど「救い」が人間には大変重要である事が解っているから。心の充実感や幸福感は、人それぞれの胸の中にしか存在しない。いまどき、通信販売のスタジオに飾られた、部屋の片隅風の写真を見て、「わあ、こういう生活が良いのよ」と真顔で、人に見せびらかす人もいないと思うが、所詮、繕われた写真に翻弄され、自分自身の趣味や、好みを捨てる事は、実は絶対に出来ないのが人間なんだ。それは、家族という心が作り出した「思い出」という宝物があるから。「成長」というものが築き上げた自分の歴史」があるからだ。「自分が何者で、どこへ行けば良いか?」解らなくなったら、こう思うと良いかもしれない。今、生きているという事が、この瞬間がすでに、来るべきところで、そこが気に入らなかったら、後ろを向いて、自分がどこで、道を間違ったかを、ゆっくりと、思い出してみて下さい。すると、意外にも、『辛いのはいまだけで、これから』ということに気がつく。そう、別に間違ってなんかいないんだ。自分が思っている程、人生という道は、細くない。多少険しい山道というだけだ。科学的に言えば、人生は、「死に向かって生きている」だけど、もっと深く言えば「人生は今の瞬間である」ともいえる。その瞬間が共有できるのが「家族」なのではないかな。