MIND BBS 〜掲示板〜

「一人」という責任。

石井竜也

11.10.07 23:06

人とうまくやっていけない、人混みも怖い、他人の心が読めない、人との交流が出来ない、空気が読めないと人から言われた、自分が親切と思っている心遣いは、ウザい、または、いらぬおせっかいと言われたことがある、自分なんか、この世に、この世界にいなくても、何も変わらないと思う傾向にある、完全に、周囲の感覚とずれていると思う事が多い、人の目が恐怖に感じる、何をやっても、うまくいかないと思い込んでいる、自分は他人から見ると、愚か者に見えると感じる、自分にだけ、責任を押し付けられているように感じる、人の言葉が何より、気になり、また恐怖を感じる、他人との比較を常にしてしまう傾向がある、自分の今の弱い性格は、家庭環境からきていると固く信じている、過去に重大な、親、兄弟との確執、または、家庭内暴力を受けた経験が忘れられない、異性に対して嫌悪感を感じる、また、異性には、好かれたいがその方法を自分は知らないし、そこまでの努力をしようとは思わない、またしようと思うほどの恋に出会った事が無い、自分から、愛せる人を探したりすることに嫌悪感がある、両親に対して、どちらかにでも、恨みさえ感じている、教育のされ方しつけ方が厳しすぎて、自分は、未だに自由というものを感じた事が無い、恋愛と性欲は完全に違うと思い込んでいる、自分の性欲が汚い、または不浄のものと思う、自分は人と比べて不幸だと思っている、・・・・たくさん寄せられている声の、ほんの少しの紹介です。この中には、男性の物も多数含まれます。「個人」と「他人」という、境界線を、構築出来ない教育システムでは、議論の自由度が違ってきます。言いたい放題自分の意見をぶちまける、または、他人の意見も痛くても一応聞く姿勢と余裕があるという社会では、この日本は無いのです。自由資本主義国家という名の、統制された自由共産主義に近い・・・つまりは、島国という閉ざされた社会の中で生きていくための慣習であり、アナタだけが、自己嫌悪な性格では、ありません。国民総自己嫌悪。これが今の日本の社会の陰ですね。自信を持って自分の前に得意分野を協調する、または、おおらかに自己主張が出来るという国ではないのかもしれません。一体いつから、こうなったのか、僕もその中の一人です。正直、自分が自由と思った事がありません。つまりは、個人主義とかの問題ではなく、人と接する事が下手なのです。そうなると、自分の弱みを漬け込まれないように完全防備を計ります、それが自虐的に思えるほどの自己否定につながって、俺のように自分を笑い者にして、他人の評価から逃避できる逃げ道を確保する。そうしていないと、「裏切られた時のショックが恐怖になって、何も出来なくなる」と思ってしまう。人の裏切りという物を、そのまま受け取り、そのままの状態にしておくと、その人を、またはそのグループを、永遠と恨む人生になってしまう。「裏切り」には、無意味な物と、それなりの理由があるものがある、また、最初からの裏切りも確かにある。日本人の精神的な癖として、裏切られた自分が悪い、または愚かだったという結論に、達してしまう傾向はある。でも、ここで、この震災を通して、もう一度、みんなで、「個人」という素晴らしい可能性の事を考えてみませんか?個人主義、利己主義、自分本位、自分勝手、自分さえ良ければいいのか?、最低なわがまま人間。いわれ方は様々だろう。でも、少なくても、人生の中で、何度も、多勢に無勢は、つきものだ。これを怖がると何も出来なくなる。評価を気にしすぎるあまり、怖くて、自分本来の個性豊かな部分をひた隠しにしてしまう。そのうち、その方が社会に対して生きやすささえ感じ始めてしまう。そもそも、自分という『個』という考えは、文明文化を発信、または発達させてきた大切な要素であったはず。それを、戦後の日本の教育システムでは、「社会を丸くおさめるための人生構築論」へと変換させられた。所詮は、小さな集落の中で、育まれてきた、精神性が、団体主義という、自由とはにても似つかない延滞主義国家へ変貌させられてきた経緯がある。だか、誰にも責任は無いとはいわない。個人個人の状況や、不本意な環境等が重なった場合、人格形成にも問題が生じる訳だから、加害者という存在に苦しめられた人も確かに多数派だと思う。でも、そこまで家庭内の均衡を揺るがせてしまった経緯とはどこにあるのだろう。戦後の日本の復興・復旧、そして経済的発展の裏には、人が人とは思われないほどの、労働と、犠牲があったに違いない。先人達の苦労は俺たちの世代の想像を絶する苦労だったろう。そんな時代に、果たして、家庭を健康に保てる余裕等あっただろうか?僕は、自分の経験も含めて、経済大国への夢と、なぜか、そこに闇雲に突き進んでいってしまった人々の生活や人生には、それなりに引き換えになった部分はとても大きいと思っている。たくましさというよりは、多分異常な執着だったのではないかと思っている。その時代において、きっと「個人的な理由」など、邪魔な物は排除され、古来からある「事なかれ主義」と同調するように資本主義の色に染まってしまう日本があったのではないか?と、思うのだ。おそらく、その連帯的自由社会主義をはらんだ自由主義は、経済至上主義と、結託し、国民から「個人の責任ある態度と自由」を消し去った。それが、昭和45年くらいの、時期に出来上がってしまったと俺は見ている。冷静に考えてみると、ここは、体裁の悪い事は隠蔽し、個人の自由な意見を敬遠する、不自由な国になってしまった。鬱憤は、あきらめに変わり、個人の意見は、かりそめの『尊重』を与えられ、消されていき、今や、命の尊厳まで、「丸くおさめよう」としている国家が出来上がってしまった。今の社会の代替の人たちの考え方は、おそらく「自分だけがこんな事を思っても、あるいは、言っても・・・」という「あきらめの思想」からでしか、物事にあたれなくなってしまった傾向が強い。「一人は強い!」これは暴力ではない。無謀でもない。人間は所詮、一人で生まれ、一人で死んでいく。泣くも笑うも、「痛い」も「心地よさ」も、個人の感覚に自然界はゆだねている。人間はそう出来ているのだ。だから自尊心を、大切にしなければならない。自分の考えを闇に葬る事は、罪悪である事を、学ぶべきだ。「秩序」という、洗脳、「社会通念」というルールも、行き過ぎれば、共産国と変わらない社会体制が出来上がる。そこにまったく文化を異にする考え方が、甘い誘惑で、襲ってくれば、人は、自分の身の置き場を無くす。つまりは、文化のモラル・ハザードだ。結局、自分にも、社会にも、世界にも、生活にも、何にでも、満足を見いだせない、想像力欠如の社会国家が生まれた。依然、自殺者は、3万人を有に超えている。最後に、大切な言葉を贈ります。「自分と他人」と思うか「他人と他人」と思うかの違いをあなたは、理解できていますか?「一人」には、責任があるんです。そこからでしか、「家族」は生まれません。そして、その集合体が「国家」である事を、忘れないで。

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