3月11日を決して、忘れません。
石井竜也
11.11.01 22:15
まず、それは経験した事のない地震で始まりました。次に、経験したこともない津波が押し寄せました。多くの人がその津波の渦に飲み込まれ、多くの街がなくなりました。日本全体が、驚きと、悔しさと、悲しみとで途方に暮れました。次に、必死に助けようと、多くのボランティアや、法人が、基金集めや、瓦礫の撤去、そして避難している方達の役に立てればと、出かけていきましたが、電気もガソリンもなく、道路も遮断され、目的地に行くのに苦労をしながら、たどりついた場所は、まるで、違う次元の場所のように感じて、呆然と立ち尽くしました。突然、原発の爆発音が、福島の真ん中からニュースと、放射能とともに飛んできました。逃げ場のない、日本人達は、一駅程の距離でも、子供達を避難させようと、必死に、駅に向かっています。でも、現場である福島にその情報が流されたのは、決定的な被曝をしてしまった数時間も後の事でした。急に見知らぬ単位の数字が並べられ、「安全な範囲です」とウソをつかれれました。目の前の小さな子供を抱いた、妊娠されている若い母親の目が、不安で今にも崩れそうなのを見ながら、関係者達は「安全ですから」と連呼し続けたあげく、第2第3の大事故も引き起こしました。いままで、ふんぞり返っていた、原発研究所だの関係者だのが一斉にテレビから逃げるように出なくなり、反対に、原発反対派の教授や研究者が、インターネットで、必死に「キケン」を知らせていました。それでも、テレビでは、馬鹿の一つ覚えのように「今すぐに危険なわけでは、ありません」と連呼しました。誰も、信じてはいないのに、連呼していました。誰も聞こうともしないのに連呼していました。そして、恐ろしい事実は、だんだん拡大するように、噂や、専門家の地道な啓蒙で、少しずつ、世の中に流れ始めました。・・・・でも、消えた街、ふるさと、命、景色、文化・・・・。あまりにも大きな被害に、結局、地元の人たちが少しずつ、自分の手で、片付けるようになりました。死者・行方不明者3万人以上の未曾有の大災害でした。・・・だけれども、今になっても、一向に国の手が届いていない現状は、どういう事なのでしょう。きっと、じっくり考えているところなのでしょう。さぞや、素晴らしい案が出されるに違いないと・・・思いたい・・・です。・・・・心があるなら。思い出して下さい、いろいろな顔を。母を亡くした父、娘を亡くした母、祖父を亡くした孫、孫を亡くした祖母。恋人をなくした花嫁、兄さんを亡くした妹。大好きなおじさんを亡くした中学生、母を亡くしても、コンビニで働いていた娘、母を助けようと、水に入ったままの父親、それを待つ小さな子ども達。寒さで震える街に、母親の痕跡を探す高校生の女の子・・・・・。忘れません。ぜったいに、忘れません。僕は死ぬまで、2011年3月11日に起こったこの国を根底から変えてしまった大災害の細かい記憶を・・・せめて、・・・せめて、亡くなられた方々に、僕はこういいたい。「皆さんの犠牲を絶対に無駄にしませんから、皆さんの思い出を、きっと、忘れませんから、自然の恐怖、原子力の恐怖、そして、それでも、必死で生きる者は生きていく事を、毎日を、一生を、一生懸命に生きていく事を誓いますから、これは悪夢じゃない、僕たちがもっと大きくなるための試練なんだと、僕はそう、思います。僕らはきっと、今より、もっと、成長しますから、後の事は心配なさらず、ゆっくりお眠りください。どうか、心だけでも、穏やかにお眠りください。そして、復興していく日本を、微笑みで見守っていて下さい。・・・おねがい・・・します」僕は、決して忘れません。皆さんが夢を持って生きていた事を・・・・・。