六角堂の完成。
石井竜也
12.04.18 18:38
そもそも六角堂とは、岡倉天心がこよなく愛したわが故郷、五浦海岸の風光明媚な場所の、張り出した崖っぷちに建てらえている、小さな「庵(いおり)」だ。『アジアは一なり』という名言のもと、そうそうたる日本画壇の重鎮達が、日本美術の衰退を食い止めるべく修行と、日本美術の研究に時間を費やし、やがては現在の国立芸術大学(芸大)の礎となった「日本美術院」を創設した場所である。近くには、童謡でおなじみの「カラスなぜ鳴くの」や「シャボン玉とんだ」など、我々が今享受している、クラッシックの要素を、日本人に優しく教育システム化して、高度な音楽運動を起こした「野口雨情」の生家などもある貴重な場所なのだ。その中で、なぜ、六角堂なのか?というと、この建物は、元々、海難事故が多発し、漁師や子供達が海でなくなって行く現場を憂いて、夜中遅くまで、絵画や書物を執筆していた岡倉天心が、地元の漁師のために、燈台の役割(目印)として作り上げた、芸術的にも地元住民にも気を配って立てられた聖域なのです。もともと、サンフランシスコで育ち、普段は殆ど英語を使っていた岡倉天心が、外国から見た、あまりにも自分たちの芸術を軽視している日本の美術界に『喝』を入れるために、立ち上げた日本美術院。菱田春草、横山大観、小川芋銭、石井柏亭、そのほかにも、日本を代表する、その後日本画壇を揺るがすほどの重鎮が、若い情熱を傾けた場所なのです。放射能汚染など、絶対にしてはいけない場所。しかし、3・11は、その設計も、破壊しました、もろい関東ローム層からなる、地盤の緩い海沿いの崖は、もろくも崩れ、自慢の松並木も津波で倒され、汚染海域として、今は全く未来の漁業が見えない土地になってしまいました。今は、我が家も、わが町も、全く違った場所のようです。一日に3〜4度は起こる小規模から中規模の余震の恐怖と戦いながら、それでも、「地元がいいんだ」と、必死で生きている同級生達の顔は、俺より、10歳は年を取ったように思われました。六角堂の完成は、ただの地元の回復と言うだけの意味ではありません。ここに芸術という種を植え、相当の人材を育て上げ、地元の何も知らない漁師にまで、美術の素晴らしさを教えた岡倉天心への、地元民の暖かい感謝の気持ちと誇りなのです。・・・寂しいのは、未だ国の保証も無く、確固とした未来予想もつかぬまま、小さな子供を育てなければならない大人達の苦悩です。高い放射能汚染地域の住民には、その恐ろしさも、体内被曝の本当の恐怖も知らされてはいません。海洋汚染は、もっと過酷です。プルトニュームや、セシウムの沈殿が顕著に現れる時期はおそらく2〜3年後でしょう。その時に、ここに人がいるのか?いたとして、東京電力はその方達にどう説明し、どう守るのか?今、一番恐ろしいとされるストロンチウムは、もう東京にも飛翔していると聞きました。福島第一原子力発電所から300キロ。ホット・スポットは、関東近郊だけでも、たくさんあることでしょう。世界から、馬鹿にされて、日本の技術水準を、低次元のイメージにした東京電力と日本政府の罪は、非常に重いと思います。科学的に、遅れているなら、せめて、人間的な措置だけでも、去年の時点で行っていれば、科学的には、信用されなくなったとしても、日本人の心のあり方には、世界からの賞賛があったに違いありません。何もかにも、後手後手に回り、北朝鮮のミサイル問題でも、40分というのろま情報開示、世界が笑っている。特に北朝鮮は、チャンスと思ってしまったかもしれません。拉致されている多くの人々の帰宅も、この事で、足下を見られないといいですが・・・。話を戻して、六角堂の再建には、希望と、日本芸術の誇り、そして地元住民の温かな心がこもっているのです。この心こそ、日本人の真の姿だと、俺は信じたい。