日本刀と剣。
石井竜也
12.09.30 12:28
昔の武士は、滅多に刀を抜かなかったと聞きます。まず抜く前に風の向き、日差しの向き、相手の腕前、品格、全てを、一瞬にして感じ取り、負け戦はしないという暗黙の了解があったそうです。つまり、勝負は、戦う前に決まっていた訳です。「鍛錬」とはこういう事を言うのですね。勝つ方は「負けを認めた方」に敬意を払い、「勝った方」は、負けた者に対して、それ以上の屈辱を与えない度量を持つ事。そうして、負けた方もまた、努力をして、鍛錬して行ったのでしょう。ヨーロッパや中東、中国や、アメリカの南北戦争などは、こうはいきません。とにかく、殺せばいい!それだけの戦い。大義も名分もありません。世界の殆どの国が、理由なんか、どうでも良い、ただ勝てば良いという考え方。その後の事も、戦いの意義も考えません。日本の武士道が今でも世界中の人々に尊敬される由縁は、戦いに美学と品格を重んじる日本の心があるからです。「いじめ」の原理は、それとはまったく逆で下品きわまりない考え方に根ざしています。一人の弱者を、あまりにも愚かで浅はかな弱者達が徒党を組んで「いじめ」抜く。まるで、この間の中国の暴動のようです。一人の女性を大勢の若者がこん棒でたたき殺す。「いじめ」は罪に匹敵します。これをして、武士道では、「卑怯」「卑劣」「外道」と呼びます。今の子供達の世界を「外道」にしてはいけません。外道のする事は、卑怯で下品です。人間として最低の行為を平気で行う事は、人間を捨てたも同然。その事を、親や教師は、子供達に教えなければならないと思います。刀は、意味のある時に抜くのです。これは今の世界の情勢を見ても解ります。経済発展のためなら、平気で戦争の辞さない大国の考え方こそ、『いじめ』の根本と俺は思います。権力者の横暴ほど、残酷で卑怯な事はありません。人を殺すのを何とも思わない以上に、自分では絶対にその現場に居合わせない外道。これを称して「人非人」というのです。人をやめた心は、既に心とは言えません。平気で人を裏切り、嘘で人を言いくるめ、それでも納得しない時には、よってたかって徹底的にぶちのめし、・・・殺す。ここまで出来るのは、人じゃありません。世界中に蔓延する、意味のない怒りと鬱憤、百鬼夜行の魑魅魍魎、人でなしの集団。こんな、無意味で卑劣な野蛮行為に絶対に加担なんかしてはいけないし、同調なんかするべきじゃない。「多少の『いじめ』はあたりまえ」この考え方が、社会を、卑劣な行為に導いている事を忘れてはいけない。ここに書かれている事が、決してきれいごとではなかった時代の日本の教育や武士道に、想いを馳せずにはいられない。