いろんな考え方。
石井竜也
12.10.09 11:54
「現実逃避」「あきらめの境地」「見て見ぬ振り」「知らぬ存ぜぬ」「どうにかなるさ」「考えないようにしてる」「自分じゃ、どうしようもない」「多分大丈夫だろ?」「どうでも良いよ」「俺には関係ねえ」「正直、もうどうでも良いよ」「考えても疲れるだけ」「聞きたくないから、もう言わないでよ」etc・・・。現実から目を背ける事は、言葉やちょっとした、考え方次第でどうにでもなる。でも、残念だけど、これらの言葉は、ポジティブとは言わない。むしろ、ネガティブなんだ。人間には、あまりにも大きな大惨事や、自分の置かれた立場、環境によって、自分の心では受け入れがたい事実を歪曲し、出来るなら考えないで逃げ通したいという願望がある。結局、こういう人間の考え方が、社会悪を増やし、実質的に容認してしまった。いくら、「それはねえだろ!」と怒っても、起こってしまったり、実行支配されたり、事実上のOKをしなくても、何も「NO」と、声に出さなければ、それは納得済みという事になる問題が多すぎるのだ。世の中にはいろんな考え方があるように思われがちだが、場所は、だいたい同じだ。幸福感も、実は人間は、似通っている場所にある。多少の違いはあれ、個性というほど違ったりはしない。だから、巨大な悪は、そこを狙ってくるのだ。人々の似通った、正義感や、幸福感、社会的な常識とか・・・。とにかく、不特定多数の人が持つであろう、感情に入ろうとする。そこでは一人一人の個性など、どうでも良い訳で、大多数の意見を物にしたやつが、力を持つという構造だ。そこを見いだしたやつが、競争にも勝つし、また、巨悪との握手も出来る。しかし、一度悪魔と握手をした人間は、2度と、地上には上がれない事を、意外にも人は忘れがちだ。似通った、俗にいう『普通の考え方』とは、実は世界秩序として作り上げられた、文民統制に他ならないのだ。結局支配する側の論理は、従順でおとなしく、多少の事をしでかしても、我慢してくれる民衆が欲しい訳で、いちいち、自分たちの支配する悪の論理を、否定するような人間は、邪魔な訳だ。そこで使われるのが、「だいたい問題ない範囲の常識」これを作れば、人は意外にも、そこに安住を感じ、はみ出た人はことごとく中傷され、いじめ抜かれる。それがまた怖くて、「だいたい良い場所」にいようとする。サタンの狙いはそういう人間だらけでいてほしい訳だ。そこで、ご満悦になっていてもらっていれば、いくらでも陰で悪さは出来る。なんせ、「だいたいの場所」が確保されているという事は、羊の広大な放牧地のように結構広い柵で覆えば良いのだから。まあ、そこそこの自由ってとこだな。これに慣れると、今度は、その包囲網を、少しずつしかも着実に小さくして行く。一人の生活範囲は自ずとその範囲を狭められて行くのだが、あまりにも時間をかけて小さくして行く物だから、気がつかない人が殆どだ。でも、ある日、身動きが取れないまで小さくなっている自分の範囲に気がつく時が来る。だが、そこまでの圧政と計画的犯行には、緻密な人間精神分析が施してあり、既に暴動さえも起こせない恐怖政治まで行き着いている。こういう論理のもと、構築される社会構造は、60〜70年くらいの時間で行われていく。つまり、ある特権階級の親族支配が3代懸けて作り上げる社会なのだ。これをあまりにも早く作れば、今までの歴史に刻まれた独裁者のように、無惨な死が待つだけなのだ。もっと、極悪な物は、明るく、いかにもそれが理想のように、作り上げて行く。いつしか、人々は、「それが常識だ」と、口々に言い始める。作られた『常識・秩序』世界は今、この非常識な真実に頭を悩ませているのだろう。