状況の把握の意義。
石井竜也
12.11.02 12:23
人間は、環境で生きている。自分の周辺の自然環境、あるいは社会の仕組みを小さく構成している会社組織の一員として。しかし、このどれもに言える事は、自分の立場や、状況を、きちんと把握しているか?という事ではないか?と思う。自分の危険な状況を把握する事なく、知らされる事もなく、もしも命をなくすような事があるとすれば、これほどの悲劇はない。例えば、子ども達だ。彼らに何の罪も情報も知らされてはいない。たとえ、知らされても、悪戯に恐怖に苛まれるだけの弱者であるのが、子どもという者だ。こんな罪なき存在を、この時代を形成し、構成し、運営している、大人達の欲望と、愚行で、彼らの未来を、もぎ取る権利や、権威など、この世には存在してはいけないはずだ。この人間世界で一番愚かしい事は、まともな議論もせず、ただ時間を費やし、綺麗ごとを並べるだけで、人の心に危うげな希望だけを、結局、推測の域を出ない情報だけを、歪曲して流し、ごまかしの情報操作で、罪なき人々を、崖っぷちに追い込む愚行。これは、鬼畜生のする事だ。せめて、助からないのなら、人には自分の最後を整理する時間が許されていいはず。その危険度をひた隠しにして、蛇の生殺しのような状態に人民を置く、権威者どもの諸悪は、当然許される訳もない。医者には、患者を治す責任が伴う。それと同時に、本人、または家族に、終焉の宣告をしなければならない義務がある。何も言わず、死を待たせるような事があってはならないのだ。同時に、病人もまた、自分の身体の変調や、自己の責任として、自分のかかった病気と勇気を持って、向き合わなければならない。そして、精一杯、自分なりの完全治癒を目指さなければならない。生きているという事は、病気になろうが、災難に巻き込まれようが、生きているときの瞬間のきらめきを、どれだけ大切にしたかにかかっている。だから、我々は、現実と向き合わねばならないのだ。夢や希望は、どんなときにでも、あるべきだ。たとえ、「そんな事考えている余裕なんかない!」と思っても、心に、光があるべきだ。人は、ギリギリの状態になると、決まってこういう「こんな状況で、夢なんか見られるか!」でも、それは、違う。現実世界と、夢や希望や祈りを持って生きて行くのとは、考える次元が違う。 よく、並べられる、夢と現実。だけど、この二つは本来並べるモノではないのだ。全く別の次元にあるものを、無理矢理言葉面だけで、並べてはならない。現実世界で起こっている厳しい状況は、把握する権利がある。当然の責任とも呼べる。また、『夢』とは、個人個人の救いであり、自由な空間であり、光だ。だから、現実を把握し、落胆しても、立ち上がる勇気を現実世界では持てば良い。『夢』なんか見れない!と嘆く前に、自分が、一体今まで、どれだけの夢を追いかけ続けていたろうか?と自分に問いかけてみるといい。とかく現実に押しつぶされ、それを理由に簡単に自分の夢や希望をないがしろにしてはいなかったか?我々日本人には、いま、この二つの相反する、精神が一緒に胸に掲げて生きていかなければならない世界がある。前を見て勇気を持って生きる事はとても勇気が必要だ。だけど、そういう凛とした態度を、生き様を、子ども達は見て育つ。もちろん、大人のついた嘘も全てを見ての話だ。だから・・・だから、自分の置かれている状況を、きちんと把握し冷静に考える所は考え、夢を見る事を忘れないように、難しくても、均衡を保ちながら生きて行かなければならない。自分の理想や、最高の状況は、そう上手く整う訳がない。それはこういう時代だからではなく、いつの時代でも、同じだったはずだ。だけども、「希望」や「夢」は、人間なら全て、心の奥底に光として、存在しているはずだ。それを絶対忘れてはいけない時代でもあるのだ。それが、輝いていれば、現実の厳しさに直面したり、厳しい状況が言い渡されたときにでも、強くいられる。それくらいの覚悟で、生き抜いて行こうじゃないか!!俺たちはそんなに弱くない。また、弱くては生き抜いて行けないこのも、正直、ある時代だ。たくましく生きる事は何も虚勢をはって生きて行く事ではない。勇気を持って、現実と向き合い、それでも希望を失う事のない覚悟の事である。その覚悟を、勇気に変えて、後ろから押してくれるのが、『夢や希望』なのではないか?と心底思う今日この頃である。