理解する努力より・・・。
石井竜也
13.03.29 00:16
確かに、我々は、常識にとらわれ、大人である事に必死になり、それでもまだ足りなくて、自分で枠組みをこしらえて、かろうじて、小さな空気穴から、ビクビクしながら呼吸し、そこまでしているにもかかわらず、同僚や会社、時にはあんなに悪さをしていた同級生にまで気を遣い、時には親にまで遠慮して生きている事に驚くのです。「大人である事」「いっぱしの社会人である事」が、そんなに得ではない事にふと気がつく。ところが一度築いてしまった頑丈な「なんとなく常識城」は、そう簡単には崩れない。そこにいれば、殿様のように思うのだ。別に何かが守ってくれる訳でもないのに、尚も、意思のブロックを積み上げている。その積み上げたブロックが落ちてけがをしたとき用に保険にまで入って、尚もまた頑丈になって行く「不確かな常識人」。こんなにいらぬ情報に惑わされ、気もそぞろなくせにパントマイムだけうまくなって行く私たちは、一体、何者なのか?一体何を恐れているのか?・・・考えると見えてくる事がある。社会常識という輪の中に何となく入っていたいのだ。そこから出されてしまわないように、必死で何かにしがみつく事で頭はいつも満杯だ。本来持っていたはずの自由な発想や、行動力や「遠慮」よりもっと大切な「謙虚」も忘れて、自尊心と誇りを胸に必死に食い止めて、ガムテープでベタベタに貼付けてなんとか今をしのぐのだ。「私は立派な社会人」そう思いたいがために、我慢と、忍耐と努力、情報収集に、常識人としてのたしなみ。「こんなに苦労しているのに」と、嘆きながら納税のために仕事をする。決して自分のためだなんて、思えない日常。こんなに抱え込んでいる俺たちに、本当の意味の「障害のある人たちの人生」なんか、想像出来るのか?とふと、思うのです。・・・でもね、考えると、結構暇な時間もある事に気がつくんだな。まるでそれが悪のようにも感じて、わざと仕事を作ったりしてね。そんな時間を何となく使って、自分とは違う人生の事も少しは考えられるのではないか?と思うのです。余裕なんて誰もないでしょう?だから、空虚になった時間を、ほんの少し、違う人生が一杯ある事も考えてみるのも、割といい物です。案外そこにこそ、本当に自分が潜んでいたりね?人生は、実は決まっているようで何も決まっていないのです。それなら、なぜ我々は、身だしなみだ、美学だ、誇りだ、清潔だと、強調し、アピールしなくちゃならないのか?本当は全部、「資本主義」という、物を買うようにしむけられるタイプの世界に生きているからなんです。そこでの「常識人」でしかないのです。全く違う理念の国に行けば、この苦労して構築した「お城」全てがあっさりと、いとも簡単になくなってしまう。違いは意外にも微妙なのです。昨日まで悪と片付けられていた物が、急に善に早変わりしたり、ついこの間まで健康に最高にいいとうたわれていた物が、実は「発がん性物質」だったり、病気だって、おそらく、人類の歴史上、これほど多くの病状に名前がついた事は無かったでしょう。命名する事できちんと、区別出来るから、簡単になるはずが、多すぎて、自分が何の病気だったかも、定かでなくなる。現代に生きるという事は、自分を見失いながら、なおも探す、焦りの時代なのです。