MIND BBS 〜掲示板〜

苦くて、温かい思い出。

石井竜也

13.04.12 11:31

昔、家は、お菓子の専門店として、かなり手広く和菓子から洋菓子まで扱っていました。もちろん、工場で働く社員も、あの小さな町にしては、多い方だったと記憶しております。お袋が潤滑油のような役割で、無口な親父を支えていました。また職人肌の厳しい指導をする、祖父のクッションにもなっていて、お袋は、職場では、「お姉さん」と呼ばれていました。小さな俺はこの「お姉さん!ここはこれでいいかな?」とかと聞いてくる従業員の人たちを、敵対してました。「ママは、俺のママだ!」とかいう風にね。そんな中、お袋は、「あいよ!」っと、快く説明、指示しながら、誰にでも、平等に接していました。今考えると、びっくりする程、人に値段を付ける人ではなかったなと、感心します。その職場に、近所から、アルバイトで手伝いに来ていた、オーティズムのお姉さんがいました。工場では、「よっちゃん!」の愛称で、親しみを込めて、そう呼んでいました。僕の子供の頃の目線で見ても、健常者と全く変わらなく、怒られたり、かわいがられたりしていたのを、覚えています。ある時、クリームの中に、石が入っている事に、気がついたよっチャンが、社長であるおじいちゃんに、その事を伝えました。すると、おじいちゃんは、凄く怒って「作り直せ!」と、一喝したのでした。その時、工場の全ての人が祖父の周りに集まり、よっちゃんのせいではない事を、涙ながらに言うんです。「親ッさん、(当時おじいちゃんはこう呼ばれていました)これは、俺の不注意でこんな事になったんだから、よっちゃんのこと、怒らねえでくれねえかな?」そう言ったのは工場長のおじちゃんでした。彼は、いつもは、寡黙で黙々と和菓子を作る腕のいい、和菓子職人でした。おじいちゃんは、次の瞬間、よっチャンに、「よく見つけてくれたな、凄いぞ」と言い直してました。こう言う事は、子供はいくつになっても、覚えています。必至に働く障害を持つ人、それを温かく見ている健常者、そんな堅苦しい事じゃなかった。少なくても、あの職場には、よっチャンは必要だったんです。彼女がいてくれたおかげで、お袋もいい役割として、職場になじんでいた。「人間らしい社会」なんていうより、日本の美しさは、人情の美しさでもあったのです。よっチャンが、身体の変調を来し始め、工場を去る時、おじいちゃんにホイップクリームをかき回すための泡立て様の道具を、ほしがっていました。それを、知っていた親父が、「持って行きなさい」と、よっチャンに記念にあげていたのを昨日のように思い出します。俺が絵を始め、親父もこの商売に見切りを付ける頃、ふらっと、こんな事を言ってました。「あの頃は、よっチャンが、随分助けてくれたなあ・・・」ってね。おじいちゃんが寝たきりになり、経済的にも過疎化の進む一方だった小さな町での、未来は見えなかったのでしょう。商売をたたむ方向に舵を切った親父の中には、寂しさの中に、いい思い出の断片として、確実にインパクトのある思い出として、よっチャンがいたのでしょう。人は、一緒に何かをする事で、障害も、何もかも、飛び越える事が出来るんです。あの頃の工場には、笑い声が響いていました。思い出すと、今でも目頭が、熱くなります。みんなが必至で生きていた。生きているからには、誰でも並列に見る癖がついていた。怒るものあれば、かばうものありというチームワークがあった。社会がこんな風に動いて行ければ、きっと、奇麗ごとじゃない、障害を持つ人々との関係も上手く行くのでしょうね。僕の人間形成にもきっと、大きな1ページだったんだと、今考えても思います。40年も前の事でしょうか?記憶も断片的ではありますが、その頃、子供だった俺には、色濃い情景として、今でも心に残っています。その後、いつの間にか、時間が経ち、よっチャンは、亡くなったと聞かされたのは、俺が中学を出る頃でしょうか? まるで、天使の様に現れて、消えて行ったようなイメージがありました。人は、こんなに優しくなれるのですね。

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