常識という倫理観の違い。
石井竜也
13.08.18 09:21
この国での常識と、世界の倫理観は違います。いくらこっちが真摯に向かい合っても、相手の文化や政治状況、長い歴史から作られた理念は、変えられないのです。という事は、こちら側の行為も通じないという事です。もしかしたら、200年後には通じるかも?でも、今現在の状況を後ろに立てて平和や、和平を望んでも、向こうの事情というのもあるのでしょう。解り合えない事もあるのだと思います。俺も「人間同士、とことん話し合えば、必ず、理解し合えるはず・・・」と、思い込んできました。でも、聞こえない声もあるのです。いや、。むしろ、聞きたくない!あるいは聞こうともしてくれない。という現実の厳しさは、和平を求めているこちら側の都合になんか、あわせられる状態ではないのです。エジプトの今の政権は、アメリカの傘下のもと作り出された、借り染めの均衡でしかなかったという事です。いつかは、民衆がその統治の無理に絶えられなくなるのは、当たり前の事。おそらく、中国でも、こういう事態になる事でしょう。国内の内戦ほど、醜い争いはありません。憎しみが憎しみを呼び、残酷きわまりない状況になるでしょう。人は、理性も持ち合わせていますが、強力な憎悪と残虐性も持ち合わせています。混沌としてきた今、アジアが変な方向に進まなければ良いのですが、悲しいかな、あまりにも、お互いを敵視し過ぎている現実がある。お互いの相容れない思想の違いは、決して埋められません。どちらかが、奴隷になるまで続けられるのです。悲しいけど、それが現実です。映画のようには行かない。ここでも何度となく言っているように、絶対に大きな渦は止められないのです。果たして、今のアジアの状態が、止められる範囲のコーヒーカップの渦であってほしいです。スペインの内乱を描いた、ピカソの大作「ゲルニカ」は、強い者が弱い者に対して、いかに残酷かを、表しています。悲劇の頂点は、同じような民族の戦いです。少しの違いが、ある意味ではフラストレーションになる事を、『ゲルニカ』は、今も我々に教えているのです。決して、起こしてはいけない戦争。・・・でも、攻めて来られた場合はどうなるのでしょう?黙って首を切られれば良いのでしょうか?殺されて行く我が子を見ていなくては行けないのでしょうか?・・・悲しいかな、現実はそうはいかないのです。人間・・・この動物は、一体、今この地球に暮らしながら、どこへ行こうとしているのでしょうか?これは福島県の海開きと、通じる事です。人は残酷であるという事も、忘れてはならない事の一つです。厳しい現実ですが、好きでそうなった訳じゃない。いくつもの要因が重なって出来ている、絡まった細い網のようなものです。ほどけるまでには、時間がかかる。最後までほどけないかもしれない。楽しい海水浴も、溺れている時には、鬼に見える。次から次に押し寄せる小さな波が、溺れている人にとっては、残酷なほど容赦がない。普通に遊んでいる人には、溺れている事さえ気がつかないかも知れないのです。アジア情勢の悪化は、この小さな波の繰り返しのように感じます。溺れている国には、手ひどく感じ、うまく行っている国には、最高の遊び場のように感じる。同じ領域でも、これだけ違う感覚なのです。