当たり前のものなんて、なかったんです。
石井竜也
13.08.26 16:08
そう!今みなさんが気づいているように、当たり前の日常だの幸福なんて、ある訳がないのです。土台「当たり前」なんて思っているから、くじけるし、ねたむ。「こうなって当たり前」は、今では、幸せに使う言葉でありません、むしろ、天罰や、悪い大人に使う言葉になりました。当たり前という言葉は意外にも、普通に使っていましたが、僕の歌詞には一切出てきません。それは、僕が「当たり前」が大嫌いだからです。「当たり前」は実は、とんでもなくひとを堕落させる言葉です。何も自分ではやらない意思表示です。これが当たり前なんて思っている時間は、実は無駄の重なりでしかありません。どんな事にも、誰かの思惑や情熱、計画や実行力、時にはずるさも、全てのひとの心の起伏が潜んでいます。だから、当たり前の事は無いのです。もし今あなたが何かにぶつかっていたり、悩みがあって、沈んでいたとします。家のすぐ横の路地裏に、一本だけ、花が咲いているのを見つける。あなたは絶対にそれを、当たり前だ!なんて思わないはずです。「よく、こんなところで、咲いていてくれたわね」と、絶対に「いとおしくて」、しゃがみ込んで、その花の逞しさと、美しさを感じるはずです。それは、そんな場所に咲いててくれた花にあなた自身を投影し、自分は、この一輪の花ほども強くないのか?と、どんなに勇気をもらえるか。罪のないものとは、こういう感覚を作り出すのです。僕の言う信仰とは、こういう感覚を差します。何万人も助けるひとがいれば、一輪の花に助けられる一人もいる。この大きさは、計る事が出来ないでしょう? もしあなたに、お子さんがいれば、あなたはその花にならなければならない。もしくは、その花が我が子であれば、いくらか、養分も日差しも当ててあげなければなりませんよね。それが自暴自棄の渦に巻き込まれた親友であれば、せめて風が当たらないように、囲いの一つも立ててあげなければ、折れてしまう。ひとの関係とは、こういうものです。「当たり前」なんかじゃない。守ってあげたいと心から思う気持ちしか、ないはずなのです。今この時代にきっと、日本人の誰もがもがいています。そんな時にでも、保身だけを考えたり、自分だけの利益を考えたりする奴もいるでしょう。でもそれも、誰かを守るためだとしたら、これも「当たり前」じゃないですよね。善と悪は、事の事情を知らなければ、判断はつかない。事情も解らずにひとを責める事は、既に「当たり前感覚」に陥っている証拠だとは思いませんか?少なくとも、あなたは今、必死で生きてる。まさに、路地裏にひっそりと咲いた花です。でも、大自然に何十万と咲いた花の美しさとは、美の根本が違う。より、哲学的で、より逞しくも思えます。結局、立ち上がる事は自分でしか出来ない。誰がどんなに、力を貸しても、自分が立ち上がる意思がなければ、そうはならない。こんな時代に生まれてきた自分を悲しむより、今日を、どう素直に素敵に生きるかを考える方が、あなたという花は輝くと思います。だって、どこに咲くかなんて、誰にも、それこそ宇宙でも、決められないのですから・・・。