それぞれの思い。
石井竜也
13.11.15 11:24
世の中には、国境を挟んで一歩入っただけで、宗教も習慣も、道徳観すら違う国が隣同士になっている例はいくつもあります。その証拠に紛争や小競り合いは、未だに世界中のあちこちで行われているではありませんか。人はそれぞれです。国もまたそれぞれだと思います。個人の人生が一人一人違うから、共有する言葉も実は厳密には同じ国民でもありません。だから男と女も、喧嘩したり別れたりの繰り返し。愛し合ったはずの二人でもそうなんですから、ましてや、文化も、習慣も言葉も違う国同士が、握手するにあたっての障害物や障壁は分厚い。友情だってそうです。その人に良いと思って行った一言が、一生顔も見たくないと言い放たれたり、一生懸命に友人を助けた事が『余計なお世話』と言われたり、人間は本当に複雑怪奇に出来ています。特に、今のようにデジタルでの、心の交換らしきものが行われるのがいとも簡単な時代には、言葉も軽くなり、言葉自身の持っているエネルギーも薄くなり、全く違う解釈で取り扱われたりするでしょう。ツイッターやメールは、手早く状況の説明程度は話せますが、その気持ちやニュアンスまでは、話せません。でも、受け取った相手は、誇大に判断してしまったり、過小評価してしまったりといった経験は、どなたにもある事でしょう。ここにいる誰もが、文章の持っている危うさに気づきながら、ここにあげていると思います。多分、みなさん細心の注意を払い、相手に、または読んでいるみなさんに失礼のないように、真摯に書き込みしているのは、痛いほど伝わってきます。本当の事を言う事は、ある種のリスクと勇気が必要です。つまりは覚悟ですね。僕もみなさんと同じようにいつも、ドキドキです。サイトによっては、消滅させられてしまうようなものもありますからね(そういうのは、過激なものが多いですが・・・)でも、僕はここでみなさんが語られている事は、なかでも自分の苦悩をきちんと、論理立てて話していらっしゃる方などの文章には、敬意さえ覚えます。僕だって、身体に不安を抱える一人です。でも、ステージでの自分は、別人格だと思い込んで30年近く。もう慣れました。僕の場合は、ある一定の状況がそろわない限り、安全に普通に生活出来るレベルですが、それでも日々苦しんでいる、またはその病気と向き合ってる方々のお心がどんなに不安かも何となく解ります。人には、「受け入れるタイミング」という事と、「受け入れられる自分の構築」という二つの要因が必要です。一見自分の問題で済みそうな言葉ですが、実は、他人の愛情や、思いやりがなければ、成り立たない事だらけなのが、苦しんでいらっしゃる方々にはお分かりでしょう。その事を、違った環境の方に、例えばスポーツマンで、頑強な体をお持ちの方にいくら説明しても、心底の不安までは解りません。又、理解出来ないで当たり前だとも思います。環境は、人の生き方や精神、場合によっては信仰まで変えてしまう事があります。自分の中に信じるものを持つ事は、決して悪い事ではありません。ただし、人には「依存という癖」があるものです。そのスパイラルに一旦入ると、抜け出せなくなる危険もはらんでいる事も忘れないでください。そこは居心地は良いのですが、周りの環境も、他者の視線も、感じなくなる危険領域もあるのです。生きて行く事は、あらゆる災害や事故、病気、地球規模の変動、政治的な矛盾などに翻弄されるのが、当たり前なのです。これを、特別な事で、自分がなってから、私だけが不幸と決めつけるのは、間違いです。誰しもが、起こりうる状況である事を心の隅に置いて、福島や、東北、韓国の問題や、これからの自分の人生など、あらゆる事が、偶然に近い状況で流れている事を忘れない事です。時には柔軟に、時には毅然と、人は、その社会の動向や自分自身の状況に応じて、変えて行かなければなりません。これは、結構大変な事ですよね。だから、僕は、ここで提案したい。「良質のあきらめ」と「悪質なあきらめ」は、存在すると思います。『あきらめ』事態、ネガティブにとられがちな言葉ですが、自分の命をかけて海に溺れている人を助けようと、飛び込んだ瞬間、心臓マヒで即死なんて事も、あるじゃないですか?その時に、あなたの中で考えなければならない事は、この瞬間、自分が出来るギリギリの事は何だろうか?という瞬時の判断です。泳げもしないのに正義感だけでは、人を救う事は出来ません。理性とは、冷淡な事ではなくて、アクシデントを、最低限の状況に押さえなければならない事も含まれます。こんな災害大国に生まれた私たちです。先人達もきっと、同じような事を考えながら、神仏に手を合わせていたのではないか?と思うのです。それぞれの違いをまず、受けとめた上での、状況判断と、人とか国とかの付き合いお方を考えないと、酷い目に遭う。正義感は、見方によっては、うさんくさく感じる事もあるし、悪いと思い込んでいたものが、実は新しい特効薬だったりしてきたのが、ここ、たかが2000年くらいの、人間の文明文化なのです。未熟と言っても、過言ではないと思いますよ。岡倉天心が、奈良を訪れた時に、朽ち果てたお堂の横に『阿修羅』が土と雨に汚れた状態で放置されていたそうです。でも、それが今では日本文化を深くする上で、貴重な国宝になっている。時代も同じ、今まさに生きている人びとの「先見の明」が求められている訳です。自ずと、行く方向はそういう視線から判断されて行くのではないのでしょうか?