安全から恐怖へ
senka
12.10.19 21:11
君がいるだけで
1992年の作品です。バブルが崩壊していくなかのこと。
それは夏の暑さにうなされていた一つの季節のようでした。
人は何を求めていたのでしょうか。
お金が世の中を舞いました。お金でいろいろな体験をすることができました。自分が経験できていなくても、実践している人を身近に観ることができました。人の世にはそういう時代も起こりうるのでしょう。可能性としては生じるのですね。
しかし、金融が破たんして、お金が回らなくなって、始めた事業も、買った億ションも、維持することが困難になって行く。
それで、とにかく「守り」たくて、「安全」という選択をしたのではないでしょうか。結果として、バブル崩壊後の安全という願いが、安全神話を創作してしまったように、今、体感しています。安全という考えは形ではなくて、物事を考える動機にあるものだと思う。
本来の民主主義は、見た目には不完全で不調和で不均等で面倒で、だけれど、情熱があって考える姿勢があって語り合えて。それが本来の安全を土台にした「真剣」で「誠実」な人間の自然観を活かした生活をする空間だと思う。
この20年はまったく逆の、ある意味での完全で調和のとれた均一の、人が語り合えない、情熱の許されない、何も考えないことが良い消費者(国民)であるような、一見大人のクールな形が出来上がっていて、自殺、うつ病と、人知では手の付けようの無い、隙の無い、逃げ道の無い、苦しい構造に安全は成りあがっていたように思えます。
震災はそれを崩壊させて、安全の壁を壊し、すべての構造の中身を見せてくれました。何も安全では無かった。人命は常に危険にさらされて、自分で身を守る以外に可能性は無いような状態をあからさまに示している。表面的な安全という選択は人が「文句」を付け難い合法的な強さに構成されていて、悪では無く、人を抑圧できる力を含んでいて。人は安全のために、陰で泣き声を出せずに自分を押し殺して、精神を病んで、命を消す。それが社会の安全を守るための手段でもあって。安全の巡視で自由が制限され人が生き難くなる仕組みが「安全」を「守る」ことの中に敷かれているように実感しています。
君がいるだけで。人は心が強くなって、何を「守り」「安全」に成し遂げようと、20数年間、何の山を幾度も登るのでしょうか。
山を登っている時、登り終えた時。下って行く時。景色は様々な表情を見せ人生を彩どります。山に登ろうと決意する高揚。助け合い守り合う仲間。言葉をかけ合い見つめ合い手を繋ぎ合う人と人。未来に命を伝え残して行く心。それ以上の幸福はありえないですね。
