SPECIAL3 LATER 〜特別企画3・その後〜

Chapter1. 今の依存型の社会をどこかで終わらせなきゃいけない

大谷  被災地に行かれて、少し気持ちも楽になられたようですね。お顔が違いますもん。


石井  少し楽になりましたね。知らないよりは知った方がよかった、ということだと思うんですけど。僕らの悪いところで、正しいのか間違っているのかわからない情報をいっぱい聞いて、知ったような気になってたんですよね。それでノイローゼになったり。いざ行ってみると、人々はたくましいし、1日1日必死になって生きているわけですよ。1日1日生きているのは東京も同じで、ああそうか、と。普通に歌って、皆と普通に話をしてみたら、なんだ同じ日本人で同じ人間なんだ、と思ったんです。


大谷  そうそうそう。


石井  以前の自分のように、映像を見ただけで知っているような気分になって、ノイローゼになっている人達が馬鹿らしく見えてくるというか。だったら何もできなくても、行って話をして海を見て、ここでたくさんの方が亡くなったんだろうけど、でも今日の海は綺麗だな、とか思ったりね。そういうことがとっても大切な気がしましたね。


大谷   僕も思ったんですけどね、“何かをしてあげなきゃいけない"って、なんとなく上から目線だったんですよね。


石井   施しですよね、それは。施そうと思うこと自体、もう間違ってますよね。


大谷   お経を読んでいたら、面白いことが書いてあって。僕らは修行をする時に、一番最初に人に施しなさいと、“布施"ということから習うんですよ。この間、600巻ある『大般若経』というお経を読んでいたら、修行が完成されていないと本当の布施はできないとあるんです。何かをさせてもらうというのは、こちらの心が整ってないと、結局ボランティアに行っても“行ってやってるんだ"、手伝っても“手伝ってやってるんだ"、ということになってしまう。そう思った時に、そうか、人に何かをさせて頂くということが一番難しいというのは、自分を捨てて出すことが難しいんじゃなくて、同じ目線まで降りて、何が大切なのかを伝えるのが難しくてかつ大事なんだということを、よく教えて頂きました。


石井   僕は大谷さんのこの間の表情を見ていて、これだけ修行されてきた人がこんな風になる場所に俺が行っちゃったら、作品なんか作れなくなっちゃうだろうと思って、正直恐ろしかったんです。でも色々と現地のお話なんかもメールで頂くと、やっぱり俺達が思っている以上に、皆さん早く元気になりたいと言いますよね。


大谷   強いね。強い。


石井   そうなんですよ。「過ぎたことは過ぎたことで、これからはこれから。子ども達のためになんとか笑顔を見せてないとね」なんておばあちゃんも居るわけですよ。こういう雰囲気の人がいるということは、俺達も普通に接していいんだなと。


大谷   本当に普通でいいんですよね。


石井   そうだと思いました。


大谷   別に特別なものを持って行く必要も何もないし、あの人達にしてみたら「有朋自遠方来不亦楽」(友あり遠方より来たる、また楽しからずや)みたいな、そんなんでいいんだと思うんですね。僕は今度また、この間行った南三陸町まで行ってくるんです。あるおじさんと縁ができたんですよ。この間、塩釜の人に連れられて、南三陸町の方が避難しているホテルに行ったら、急に法話してほしいと頼まれたんです。そこで法話をさせて頂いた後で、ホテルのフロントにでも飾ってもらおうと思って字を書いていたら、一人のおじさんが来て、「それ俺にくれよ」って言うんです。「だけどおじさん、これ一般家庭用じゃなくて、お店に飾る用だよ」って言ったら、「俺の店に飾るから」って。「だってここに住んでるんでしょ」て言ったら、「店は流されたけど、新しい店つくってるんだ」と。床屋さんなんですって。その床屋さんが復活したら飾りたいからということだったんです。それでね、昨日電話がかかってきたんですよ。お店が復活するって。だから看板を書きに来てって。


石井   いいですね。


大谷   「行く行く!」って言って。その人に会うのは今度で3回目なんですけど、僕ね、何回も同じところに行ってみようと思ってるんです。


石井   そうですよね。希薄に人と付き合っても、結局は希薄さだけが残って、逆に淋しくなっちゃうんじゃないかと思います。だったら1か所に数回行ってみる覚悟で、そこの人達とお付き合いするぐらいの気持ちで行けば、今度はその人達のツールでまた違うところにも行けるし。無理して行くんじゃなくて、流れるようにお邪魔すると。


大谷   それが最高。被災しているから歌を歌いに来ましたとか、お経をあげに来ましたって言ったって、向こうは「何しに来たん?」みたいな感じになってしまいますからね。


石井   今僕がやっているのは、「1万人の歌」というプロジェクトなんです。西日本でも何かしら変な風になっちゃう人もいるわけですよ。それも可哀想だなと思うんです。情報だけはいっぱい流れてくるけど、仕事は忙しいし子どもはいるしで結局何もできない…と。だけど歌なら歌えると思うんです。頑張ろうとかそういうのはもうやめて、強く生きるんだと、強く生き残るんだと、そこに焦点を当てて歌を作ったんですよ。顔は下を向いてしまうかもしれないけど、心の顔だけは、気持ちだけは上を向こうと、そういう言葉から始まるんです。そして「つよくつよく」と何回も何回も繰り返す。お経のオンコロコロのように、同じことを何度も唱えるというのは、今とっても必要なんじゃないかと思って。「つよく」という言葉は、小さい子どもからお年寄りまで皆知っているし、日本人にはそれが一番いいなと思って、そういう歌を皆に歌ってもらってるんです。お経もそうですけど、声を出すのはいいことですね。石巻で歌った時も、なんだかんだ2回目には歌ってくれてるんですよ。泣いている人までいて。ああ、歌の力にはまだまだ可能性があるなとも思いました。それと、歌いながら涙を流しているのを見て、気持ちに大きな傷があるということは、こういうことなんだろうなって思って。


大谷   「歌」というのは、「訴える」からきているらしいですね。


石井   えぇ! そうなんですか?


大谷   心の吐露なんですね。だから歌には力があるんです。


石井   なるほど・・・単純なことなんですね。


大谷   お経も心の吐露なんですよ。そういう意味では、歌は、人の内側にあるものを浄化させたり昇華させて頂けるものなんですね。だから歌をうたって泣くというのは、素晴らしいなあと思って。


石井   結局僕らは、空気の中で生きているわけです。空気があるからこそ、音が振動で伝わるんですよね。こういう環境の中で僕らが進化したからこそ、声ができたり、耳に鼓膜ができたわけで、そうじゃないと、お経も歌も無かったと思うんです。反響させることは、気持ちの浄化や、気持ちの解放に繋がっているんですよね。心を治すところまではいかないかもしれないけど、無心になったり、夢中になったり、邪気をはらったり、声を出すことでできることはいっぱいあるのかな、なんて思いましたね。


大谷   僕は悩みを持っている人によく出会うんですが、本当に悩んでいる人って、言葉が無いんですよ。


石井   そうでしょうね。


大谷   “こんなことを悩んでるんです”って言える人は、既に言葉にして昇華しているから。


石井   そういう人達は、まだ言えるだけ軽いかもしれないですね。


大谷   坊さんに自分の意見を持っていって、坊さんどう思う?という確認をしに来るだけなんです。本当に重たい人はしゃべらない。


石井   しゃべらないし、来ないでしょう。5年くらい前、自殺者が3万5千人近くになった時に、なんでこんなに自殺者が、戦死する人より多いんだろう?と思って。ということは、戦争しているのも同じじゃないかなと。戦地で1年間に地雷や爆破で死んでいくアメリカ兵とイラク兵、民間人を集めたって、こんなに死んでいないですよ。この間ニュースで、アメリカ兵が8人死んだって大きく取り上げられてましたけど、なんか単位がわかんなくなっちゃいますよね。


大谷   日本人は今、ちょっとおかしい。


石井   わからなくもないんですけどね、今の状況はね。無政府状態が続いて、空気の中に見えるわけじゃない物質があって、症状は何代か後に出ると言われて。ホットスポットなんて言われたって、“ここから”って線でも書かれてあればわかるけど、全くわからないし。見かけは緑できれいなんですもん。


大谷   情報操作されてしまって、今は多分みんなわからないんだと思うんですよね。


石井   そうなんでしょうね。


大谷   それをわかったような顔をして物を言っちゃうんで、問題があるんじゃないかなと。謝れないから今の日本人は。“ごめんなさい”って言えないんでね。


石井   キリスト教に、傲慢や嫉妬といった「七つの大罪」というのがありますよね。あれを聞いていると、宗教ってどれも同じだなと思うんですよ。マホメットの言っていることも、お釈迦様の言っていることも、キリストの言っていることも、結局人間が人間として素直に生きて行けばいいところを、その一線を超えてしまって、プルトニウムみたいな全く自然界に存在しないようなものを無理に作ってしまうと、こういうことになるんだなと。何千年も前にこういう人達がみんな言っていたことだと思ってね。じゃあなんでそんなことをやっちゃうんだろうって考えたんです。それはやっぱり欲得でしか物事を判断できない人間達が、どうしてもそこから逃げきれずに、“他人はどうでもいい”というところに行き着いてしまうんだろうなと。結局“依存”というのが、人間の大きな欲望の1個として、心の奥の方に肩を張っているんですよね。この依存というのは、社会を変えてしまうし、国を変えてしまうし、世界を変えてしまうと僕は思うんですよ。この依存型の社会を、どこかで終わらせなきゃいけない。


大谷   そうですね。


石井   それをしないと、こういう大災害が起こった時も、人のことなんて考えてらんねえよって、助けようとも思わないし、自分を保持するのがやっとになってしまって、最終的には小さい人間社会になってしまう。これは下手すると、とてつもないでかい力に簡単に払い落されちゃうなと思って。


大谷   今日も電車に乗ってここまで来たんですが、今までだったら冷房で寒い位だったから、お衣を着ていられたんです。だけど正直なところ、節電中の今は暑くて着ていられないんですよ。この間200人くらいの公演に行ったんですが、その会場は28℃に設定して窓を閉め切っていた。200人も入っていたら、逆に窓を閉める方が暑くてしようがないから、開けてくださいとお願いしたんです。上着を脱ぎたい人は脱いでいいし、水を飲みたい人は飲んで頂いて結構ですと。たとえば道路では白線から出ちゃいけないって言うけど、危険が伴えば出るでしょう。それと同じように、世の中には時と場合があると思うんです。今日公演に行った商工会議所では、ビルの窓が開かないんです、全部。電気があって、冷房がきくのが当たり前だから、密閉度を重視して窓が開かない。しかも、エレベーターじゃなくて階段でいいですよ、と言ったら、階段の部分は冷房が通らないのでもともと通る設計をしていないから、エレベーターで行きましょうというわけですよ。それを聞いて、みんながいつの間にか“当たり前”で、なんの疑いもなく過ごしてきたんだなあと思いましたよね。


石井   依存なんですよ。


大谷   今、電気が、冷房がと言っているけど、小さい頃は冷房なんてなかったですもんね。でも冷房をつけ始めたら、よそもやっているからうちもやらなきゃ、と言っている間に、それが当たり前になっちゃった。


石井   夏の初めくらい、小学校4、5年の頃ですかね。いつの間にか畳の上で寝ちゃった自分に、おふくろがタオルケットをバーンとかけてくれて、おなかは冷えないようにって足だけ出してくれて、自分はショウノウの匂いをフーンと嗅いで、新しいタオルケットだーと思いながら、知らないふりして眠ってる。そのうち蚊取り線香の匂いがしてきて、「そろそろ起きな」と言う母親の声と、カラスの鳴き声が聞こえてきて、夕焼けを見ながらキュウリに味噌をくっつけてパリパリ食ってると、ヒグラシの声が聞こえてくる・・・ああいう生活は、確かに蒸し暑かっただろうけど、それを感じなかったと思うんですよ。


大谷   そうですよね。


石井   一度それを当たり前と思うと、人は不思議に感じなくなっちゃう。例えば、頭がちょっと痛いからと、我慢しないで薬を飲みました、そうしたら良くなりましたと。また頭が痛くなりました、また飲みました。次は頭が痛くなったら困るから最初に飲んでおこうと。そうやって、いつの間にか関係ない時にまで飲むのが当たり前になってしまう。俺の友達に、法律に守られているシャブ中がいるんです。そいつは脳の病気なんですが、痛くてしようがないと言うので、モルヒネを打たれたんですね。それが大量すぎたのか、何回かやられた結果、依存症になっちゃったんですよ。1日2回打たないとといけないんですって。フットボールをやっていた人が、今では見る陰もないんです。そうやってわりかし俺達は、依存するつもりがなくても、知らないうちに変なものを混入されていると、どんどん依存するようにもっていかれちゃうのかなと。で、今回のようなことが起きて、ようやく気がつくんですよね。“あ、依存症だった”って。


大谷   今回、皆最初は国が助けてくれる、誰かがやってくれると依存してたけど、今はすっかり頼りにならないから自分達がやるしかないということがわかったわけですよね。これもしかすると、チャンスかもしれませんよ。


石井   そうですね。


大谷   ただ、仲間がこれだけ苦労している時に、やってやるという態度が出てしまう民族になってしまったんだなと思って。被災地に初めて行った時に僕が壊れたのは、自分が何かをしなければならないといっているけど、実際は、してやんなきゃいけないみたいなところがあったんだと思いますよ。


石井   でもその“してやんなきゃ”ということ自体は、僕は決して悪いことではないと思うんです。ただそれがこの間の復興大臣のように、傲慢という形で出てしまうとね…。人というのはやっぱり気持ちで生きているわけで、お金や権力では通用しない、どうにもならない世界はあるわけですよ。一度いい目を見てしまった人は、自分が普通の人であったということを忘れて、あたかも自分は特殊な人間であるかのようにふるまってしまう。冷静で居られる人というのは、信仰心があったり、親のことを考えていたり、必死で子どものことを考えていたりする。そういう、自分の目の前にあることに対して、自分にできることをしよう、と単純に考えられる人は強いですよね。